人生につける薬

最終回
なんのために生きているのか?と問うとき

人生は不本意だらけ

 最終回です。

 前回わかったことは、ストーリーを理解しているとき、自分を含む登場人物(agents=動作主)の「目的」を僕らは(誤解であれなんであれ)ある程度把握している、ということでした。

 生きていると、不本意な状況ばかりです。

 仏教で言う〈一切皆苦〉の〈苦〉という字を見ると、なんとなく苦痛や苦悩といったハードな状況を考えてしまいます。だから、「いや、苦ばかりではないよ」と反論したくなります。

 けれど、苦と漢訳されたパーリ語dukkhaは「不本意」「思いどおりにいかないこと」全般をさすものでした。仏教は致命的な苦痛や苦悩と、ライトな不平不満や不快とを、本質面では分け隔てしないようです。

 

それでも「目的」「意味」を求めてしまう

 苦(不本意な状況)が深刻だったり、長期化したりすると、
「なぜ生きてるんだろう?」「どうしてこんなに苦しくて悩んでるんだろう?」
と問うてしまうようになるものです。

 前回アリストテレスの『自然学』に教えられたことは、「なぜ?」という問いには「原因」だけでなく「目的」もある、ということでした。

 「なぜ生きてるんだろう?」と問うときは、原因や理由(「なんのせいで?」)よりも、むしろ目的、あるいは意味(「なんのために?」)を問うているのです(〈理由ではなく、意味が知りたい〉→12回 参照)。

 「原因」とは、客観的に「これ」と確定できるものではなく、人間がストーリー形式を使って世界を解釈するときに、解釈者の都合で頼りにする概念である、ということを、18世紀にヒュームは指摘しました(→3回 参照)。

 そしてベイトソンは、「目的」も同じくそういうかりそめのものだと言い切りました(→前回 参照)。

 それがわかっていても「目的」「意味」を求めてしまう。そのことを、べつに責めたり恥じたりしなくていいと思います。

 

「なんのために」がわからないのが苦しい

 ニーチェは『道徳の系譜学』(1887)の末尾で、以下のような人間学的洞察を提示しました。

〈人間は自分の存在にどのような意味があるのかという問題に苦悩したのである。〔……〕人間の問題は〔……〕苦悩そのものにあったわけではない。「何のために苦悩するのか?」という叫びに、答えがないことが問題だったのだ〉

〈苦悩の意味が示されること、苦悩が何のためであるかが示される必要があった。これまで人間を覆ってきた災いは、苦悩することそのものではなく、苦悩することに意味がないことだった〉(第3論文第28節、中山元訳、光文社古典新訳文庫。太字強調は引用元では傍点)

 これを読んだとき、即時に思い出した歌があります。低年齢向けアニメソングとしては歌詞が異様に重いことで知られる「アンパンマンのマーチ」です。

〈なんのために生まれて
 なにをして生きるのか
 こたえられないなんて
 そんなのはいやだ!〉

 これを作詞したやなせたかし氏が、はたしてニーチェを意識していたのかどうか、不勉強にして僕は知りません。

 しかし、仏教が言うように〈生きる〉ことイコール〈苦〉(不本意)だとしたなら、この歌詞はまさしく『道徳の系譜学』の結論に調和します。

 〈生きる〉ことも〈苦〉(不本意)ですが、その「生きる苦しみ」が〈なんのために〉あるのか〈こたえられない〉ことこそが最大の〈いや〉=〈苦〉だ、というわけなのですから。

 

「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる言葉

 ここで私は、精神科医・脳外科医のヴィクトル・E・フランクルのことを思い出します。彼は『夜と霧』(1947/1977)で、ユダヤ人としてのナチス強制収容所体験を記述しました。

 ふたりの被収容者が絶望的な極限状況下、自殺願望を口にするようになったとき、〈生きていることにもうなんにも期待がもてない〉という言いかたをしていたというのです。

 〈期待〉という言葉を見ると、僕はいつもつぎの短歌を思い出します。

「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる希望まみれの言葉   枡野浩一

 この短歌の成立事情については作者の「『「がっかり」は希望まみれ』」という文章をご覧いただくといいのですが、この短歌を思い出すたびに僕はいつも驚きます。

 まず〈「がっかり」は期待しているときにだけ出てくる〉言葉である、という洞察の深さに驚きます。そのとおりとしか言いようがありません。枡野浩一さんという人の鋭さに驚き、教えられるばかりです。

 そしてつぎに〈期待しているときに〉〈希望まみれの言葉〉が〈出てくる〉という考えかたに意表を衝かれ、驚きます。

 というのも、僕は、他人や世界に期待していたあいだ、希望を持てなかったからです。

 そして、他人や世界に期待するのをやめたとたん、希望を持てるようになったからです。

 ひょっとしたら、人は期待しているときには希望を持てないのではないでしょうか。

 僕は「絶望」を「希望」の対義語としてではなく「期待」とセットの語としてとらえています。

 「え? 期待と希望はそんなに違うの?」
 とあなたは疑問に思いますか?

 

人生への期待を手放す

 ふたりの被収容者はなぜ絶望していたのか。

 それは彼らが(知らずして)人生に期待していたからです。期待していたからこそ、極限状況が不本意(=苦)としてたちあらわれてきたのです。

 フランクルは彼らに、〈生きる意味についての問いを百八十度転換する〉という可能性を示唆しました。

 〈わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ〉(池田香代子訳)

 ドイツ語でも日本語でも、〈期待〉する(erwarten)の〈待〉は、待つ(warten)ということです。フランス語なんて、「期待する」も「待つ」も同じattendreです。

 すると、ひとりの被収容者は、外国で自分を待っている子どもがあることを思い出しました。

 もうひとりは研究者で、何冊か刊行した段階でまだ未完の仕事が自分を待っているということを思い出しました。

 〈自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ〉

 

問いの方向を変えて、それに答える

 こういった人たちの、生き抜く「目的」とするものへの思いは、本質的には「執着」というネガティヴなものと同根なのかもしれません。しかしうまく言えないのですが、違いがまったくないと言い切れる自信も僕にはないのです。

 なにしろ、ふたりの収容者は、自分が人生に期待することをやめたのですから。

 そして以後は逆に、人生が自分になにを期待しているか、なに(だれ)が自分を待っているかを考えるようになったのですから。

 「執着」が自分の欠如を埋めようとする感情、あるいは期待の問題であるのにたいして、ふたりの被収容者に自死を思いとどまらせた「目的」「責任」の意識は、覚悟を含む知的な理解の問題に見えました。

 〈自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間〉という言いかたにも注目したいところです。

 フランクルは『死と愛 実存分析入門』およびその増補改訂版『人間とは何か 実存的精神療法』のなかで、責任という概念を重視しています。

 責任(Antwortung, responsibility, responsabilité)とは、どうやら、問いに答える(antworten, answer, respond, répondre)ことらしいのです。

 この連載の言葉づかいで考えてみると、
 「なぜ私が?」
 と問うストーリー形式から、
 「人生が私になにを期待しているか?」
 という問うストーリー形式へと〈転換する〉ことで、その後の人生がそのままその問いへの答えになってしまうのだから、これは恐るべき発想の転換です。

 なお、人には〈責任〉を手放す自由や、人生から自発的に退場する自由もあると、僕はもちろん考えています。

 

運命は物語の形をしている

 3回 で書いたとおり、ロラン・バルトは、「物語」とは前後関係を因果関係にスライドさせる「前後即因果の誤謬」を体系的に濫用するものだ、言いました。

 そのあとバルトは、このようにも言っています。前後即因果とは「運命」というものの性質を短く言ったものだ、と。

 そして「物語」とは「運命」の「言語」(ラング)にほかならない、と続けます。この表現は、このままだとわかりにくいのですが、ここでは、運命とは物語(というかストーリー)の形を取ることによってのみ認知可能な形をとるものだ、くらいに取っておくことにします(正確なパラフレーズではまったくないのですが、ご勘弁ください)。

 運命といえば、11 回に登場したストア派哲学者エピクテトスはまた、こんなことも言っていました。

〈出来事が君の欲するように起ることを望まぬがいい、むしろ出来事が起るように起ることを欲し給え、そうすれば君はゆとりを持つことになるだろう〉(「提要」8、鹿野治助訳)

 これはニーチェが『喜ばしき知恵』(1882/1887)第276節や『この人を見よ』(1888執筆)第10節で強調した「運命愛」という考えかたにつうじる考えかたです。

 またフランクルに影響を与えた20世紀前半オーストリアの精神科医アルフレート・アドラーが、大事なのはなにを持っているかではなく、持っているものをどう使うかだ、という意味のことを言っていたのを、僕は 思い起こします。

 

無自覚なストーリー作りをやめる

 人間は世界をストーリー形式で把握し、新たな平衡状態に向けての事態進展・収束の弾道をシミュレーションする作業を、自覚せぬままおこなっています(→14回 参照)。無自覚なストーリー作りのことを「妄想」と呼びます。

 人生に期待するということの大部分は、この弾道予測への期待です。「がっかりする」とは、この無自覚な妄想的シミュレーションでしかないストーリーを「本来の人生」と見なし、それと比較して現状を「贋の人生」にしてしまうことにほかなりません。

 僕がかつて人生に期待し、たびたびがっかりしていたとき、「人生に期待することをやめる」という選択肢が存在することを知りませんでした。

 物語論(ナラトロジー)を研究していて、あるとき、「人生に期待することをやめる」という選択肢を教えられました。

 言われてみれば、自分はある時期から、自覚せぬまま人生や他人にこちらの皮算用的ストーリーを期待し、要求し、期待したストーリーを世界がどれくらい満たしてくれるのか、一喜一憂、いや一喜百憂くらいのペースで採点してきたともいえるなあ、と思ったわけです。

 自分が苦しいのは無自覚なストーリー作りのせいだったのか。なるほどね、と。

 もちろん、期待と採点の繰り返しで生きていくのが、自分に合っていればよかったのでしょう。それが自分の気質に合っている人も、きっといることでしょう。

 どうやら僕には合っていなかったらしい。それだけのことだったのです。

 それ以来、「人間は物語る動物である」ということを自覚することで、ストーリーのフォーマットが悪く働いて自分が苦しい状況に陥る危険を減らし、あわよくば「ストーリー」のいいとこだけを取って生きていきたいという、虫のいいことを考えています。

 そして、この虫のいいことを考えれば考えるほど、いろんなことがラクになってしまいました。

 もっとも、ある程度ラクになるまでに5年以上かかりました。

 5年以上も虫のいいことを考え続けるのはなかなかの偉業ですが、虫のいいことを考えるほうは自分の気質に合っていたようで、いまなお虫のいいことを考え続けています。

 もちろん、「虫のいいことを考えたから、いろんなことがラクになった」というのも、僕の物語的因果づけにほかなりません(→10 回参照)。

 物語論という方法は、いろんなことを教えてくれます。

(無自覚なストーリー作りをやめるための具体的な方法は、この連載とはまたべつの話題なので、またべつの機会にどこかで書きたいと思います)

 ここまで9か月間、おつきあいいただき、ありがとうございます。

 この連載では、僕たち人間は日常、世界をストーリー形式で認知していることが多い、ということを述べてきました。

 そのとき、僕たちはストーリーの語り手であると同時に読者であり、登場人物でもあるのです。

 さいわいこの連載は、加筆修整を経て本の形になることになりそうです。どうか本がバカ売れしますように……(←無自覚なストーリー作り)。

(おわり)