人生につける薬

第1回 あなたはだれ? そして、あなたに話しかけているのはだれ?

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

あなたは「物語る動物」です。

 あなたは「物語る動物」です。
 僕も「物語る動物」です。
 「物語る動物」どうし、なかよくしましょう。
 なかよくする近道は、自分が「物語る動物」であることを、おたがい自覚することです。

 僕は千野帽子といいます。
 僕は日本の地方都市に生まれ、日本の大学と外国の大学院を出て、勤め人をしているときに、こうやって文章を書く仕事もはじめました。
 長いこと京都に住んでいましたが、おととし神戸近郊に引っ越しました。
 どうかよろしくお願いします。

できごとと時間とストーリー

 いま、自己紹介で経歴を述べるとき、僕はできごとを時間順に並べました。
 (じつは就職のほうが外国の大学院の修了より先なのですが、順番が入れ替わってます)
 もちろん
 「いまは神戸に住んでるけど、おととしまでは京都にいたよ」
 というふうに、時間を逆にさかのぼることもできます。
 いずれにしても、「できごと」を語っています。

 できごとを語るということは、
 「できごとの前」
 「できごとのあと」
 という前後関係ができます。つまり、「時間の流れ」のなかで世界を把握する、ということになります。僕は自分の人生を、

 地方都市に出生
 ↓
 日本の大学を卒業
 ↓
 外国の大学院を修了
 ↓
 勤め人になる
 ↓
 ライター仕事を始める
 ↓
 京都から神戸近郊に転居

 という「ストーリー」として把握している、ということですね。
 つまり僕は「自分は何者か?」ということを、ストーリーの形で把握しているわけです。

ストーリーと物語とナレーション

 またさっき僕は、つぎのような「文」を作りましたね。
「日本の地方都市に生まれ、日本の大学と外国の大学院を出て、勤め人をしているときに、こうやって文章を書く仕事もはじめました。
長いこと京都に住んでいましたが、おととし神戸近郊に引っ越しました」

 ストーリーを表現する「文」には、物語(ナラティヴ)という性格があります。僕の自己紹介はひとつの物語なのです。
 なお、文を作るとか、口頭で言うとかいったこと一般を「発話」と言います。その発話内容に「ストーリー」があるときは、その発話は「語り」(ナレーション)という性格を帯びます。

 履歴書の学歴・職歴欄を書くときには、上記の「↓」でつながった「ストーリー」を頭のなかで完全に組み立ててから「文」を書きますね。
 いっぽう、さっきあなたが読んだ文章のばあいはそうではなく、僕が「文」を書いていくと同時に、頭のなかで「ストーリー」ができあがっていきました。自分の人生の記憶のなかから、なにをチョイスするかを、ほぼ即興で決めたわけです(就職と大学院修了の順番が入れ替わってるのは、そのせいかもしれません)。

 以上のように、ストーリーと、その発現形である「物語」との関係には、
 (a)頭のなかにあらかじめできあがったストーリーを言葉にする。
 (b)言葉を発しながらストーリーを手探りで作っていく。
 このふたつの極があります。
 もっとも、じっさいにおこなっていることは、
 「頭のなかにぼんやりと方向づけられたストーリーの部品を、言葉にしながら修整・調整しつつ、最終的には細部が決まっていく」
 ということが多いので、厳密に言えば語り(ナレーション)は(b)の要素が強い作業だといえます。
 このことはとても重要なので、この連載でまたとりあげることになるでしょう。

人間は物語る動物である

 ここまで見てきたように、人は、「自分は何者か?」というだいじなことを言おうとすると、「物語」の形で言わざるを得ないのです。
 そして
 「自分の家族は何者か?」
 「自分が勤めている会社はどういうものか?」
 「自分が住んでいる国は?」
 「自分が生きているこの世界は?」
 といったことについても、「ストーリー」の形で理解しようとします。

 人間は、時間的前後関係のなかで世界を把握するという点で、「ストーリーの動物」です。
 そして、そのストーリーを表現するフォーマット「物語」に、人間の脳は飛びついてしまいます。自分が語るときも、人が語っているのを聞く番が回ってきたときも。
 人間はしんそこ「物語る動物」なのです。

 認知心理学に多大な影響を与えたジェローム・S・ブルーナーは、こう言っています。
 〈人のコミュニケーションにおいて、もっとも身近にあり、もっとも力強い談話形式の一つが物語だ〉
 〈物語構造は、言語による表現が可能となる前の、社会的実行行為の中に本来備わっているほどである〉
 (『意味の復権 フォークサイコロジーに向けて』岡本夏木他訳、ミネルヴァ書房、108-109頁)

 人間には「ストーリー」のほかにも世界を把握する枠組を持っています。たとえば「アナロジー」(類推)。でも、それについて話すと脱線するので、いまは物語に集中します!

「わたし」も物語の形をしている

 さきほどの自己紹介で、僕の人生をかいつまんで物語の形にしました。
 でも、とくに伏線とか、おもしろい部分とか、山場とか、オチとか、そういうものはありませんでしたよね?
 同じようにひとりの人間の人生を聞かせる(読ませる、見せる)ものでも、「身の上話」や小説や大河ドラマだったら、さっきの僕の自己紹介よりは、おもしろさは格段にアップしています。そういう物語でなくてごめんなさい。

 ところで、大学を卒業してからもう20年以上経っています。そんなむかしの僕と、さっき自己紹介をした僕とでは、なんだか別人のようです。
 こうやっていま書いてきた文章をいったん見直して、さてどう続けようかと僕は考えています。気分転換のためにお茶をいれて、飲んでいます。「温かくておいしい」と感じている僕は、さっきまで「さてどう続けようか」と考えている「僕」と、どうもうまく合致しない。

 文章では「僕」といって実体化していますが、じっさいにキーボードを打っているのは「指」だし、お茶を飲んでいるのは「口」です。
 その指も、口も、そして脳内に思い出されている「大学卒業時の僕」像も、それを思い出しているこの男も、またこの文章をどう続けようか考えているその男も、その全員を便宜上「僕」とまとめてしまうのは、よく考えるとちょっと大雑把なのではないでしょうか。
 では、どういう仕組で、このすべてを「僕」と呼んでいるのでしょう?

 認知神経科学においては、自己というものは全人格のなかの一部に過ぎず、自己のありかたは状況に応じてつねに刻々と変化しつづけてやまない、という考えかたが出ています。
 この「僕」「わたし」という表現は、複数の瞬間的な自己像をパラパラ漫画のようにつなぎ合わせて、なにか一貫した実体であるかのように物語ることによって生じる、と考えることもできる、というのです。

 脳はそんなウソをついて、持ち主をダマしてまで、「一貫性」を守ろうとするのです。
 物語はそういう「主人公の一貫性」が大好きなフォーマットです。

 「自己」概念は、物語的に構成されている。そう気づいたのは、神経科学者(アントニオ・ダマシオやマイケル・S・ガザニガ)だけではありません。
 「自分である」ということ(=アイデンティティ)が時系列のなかで一貫性をもつものとして構成されているひとつの「仮定」である、ということを、ドイツの哲学者トーマス・メッツィンガーとフランスの哲学者ポール・リクールとが、それぞれまったく違ったアプローチで指摘しています。

 後者はそれをはっきり
 〈物語的アイデンティティ〉
 と呼んでいるのです。

ストーリーは人を救いもするし、苦しめもする

 「ストーリー」は人間の認知に組みこまれたひとつのフォーマット(認知形式)です。
 それ自体は、ただの事実であり、いいことでも悪いことでもありません。
 人間はストーリー形式にいろいろな恩恵を受けています。それなしには人間は生きられないと言ってもいいくらいです。
 人がストーリー形式が理解できなくなったときは、記憶や約束といった「まともな社会生活」に必要なものがその人のなかで壊れてしまっています。

 ストーリーが人を救うこともありますが、そのいっぽうで、僕、あるいはあなた、ひとりひとりの人間の個別の状況によっては、逆にストーリーが人を苦しめたりすることがあります。
 (正確には、僕やあなたがストーリーを使って自分を救ったり、苦しめたりすることがある、というべきでしょう)
 ストーリーが人を救ったり、逆に苦しめたりするとはどういうことか。
これについても、追い追い書いていこうと思います。

 ストーリーのせいで苦しむのは、自分が「物語る動物」であるという自覚がないからなのです。
 「人間は物語る動物である」ということを自覚することで、ストーリーのフォーマットが悪く働いて自分が苦しい状況に陥る危険を減らし、あわよくば「ストーリー」のいいとこだけを取って生きていきたい。
 僕はそういう虫のいいことを考えています。

 僕たち人間が「物語る動物」である、ということには、いったいどういう意味があるのでしょうか。
 それについて、この連載で考えていきたいと思います。

人間の思考を解き明かす、ふたつのなぞなぞ

 つぎのふたつのなぞなぞ(どちらも、とても有名ななぞなぞです)は、人間の考えや行動の秘密を教えてくれます。

 問1
 ある国の、ある村には、伝統的な雨乞いの踊りがある。
 それをやると100パーセント雨が降る、と村人は口を揃えて言う。
 さて、それはいったいどんな踊りか?

 問2
 ある男がその息子を乗せて車を運転していた。すると、車はダンプカーと激突して大破した。
 救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。
 救急病院の手術室で、運びこまれてきた後者の顔を見た外科医は息を呑んで、つぎのような意味のことを口にした。
 「自分はこの手術はできない、なぜならこの怪我人は自分の息子だから」
 これはいったいどういうことか?

 このふたつのなぞなぞは、人間の思考の枠組のひとつである「物語」がどういうものであるかを、僕に教えてくれました。
 どうかみなさんも、考えてみてください。
 このなぞなぞは、正解に達して終わりというものではありません。
 正解に達したときが、人間にとって「ストーリー」や「物語」がどういう存在であるかを考え始める出発点です。

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