些事にこだわり

アカデミー賞という田舎者たちの年中行事につき合うことは、いい加減にやめようではないか

蓮實重彥さんの短期集中連載時評「些事にこだわり」第7回を「ちくま」5月号より転載します。2022年3月、北米の一角のお祭り騒ぎと無縁に起こってしまった真の映画史的損失について――。

 一応は大スターと呼んでおこうウィル・スミスさん――新聞の表記に従う――によるさるコメディアンの顔面平手打ち事件で記憶されることになりそうな今年のアカデミー賞授賞式だが、それ以前から令和日本のマスメディアはかなりの盛りあがりを見せていた。それは濱口竜介監督の名前が複数の部門に候補として挙げられていたからにほかなるまいが、いったんノミネートされたからには貰っちゃうにこしたことはないのだから、『ドライブ・マイ・カー』(二〇二一)で「国際長編映画賞」を手にして、お前さんがオスカーかよとつぶやいた濱口監督にとって、それはひとまず目出度いことだったといってよかろうと思う。
 おかげで、日本国の某官房長官までがしゃしゃり出て、おそらくはそれまで一度も聞いたことのなかろう名前の映画作家をいかにも事務的に賛美したりしていたが、それなら、二年前の世界的にはより権威あるヴェネチア国際映画祭で「監督賞」に相当する「銀獅子賞」に輝いた『スパイの妻』の黒沢清監督に対してひたすら沈黙をまもったままだった日本国政府はいったい何をどう勘違いしているのかと、ちょっぴり侮蔑の念を表明しておく。
 もっとも、アカデミックな姿勢とはいっさい無縁の、その呼称にはまったくふさわしからぬ年に一度のハリウッドの映画的かつ空疎きわまりない祭典には、いっさい興味というものがわかない。そもそも、アカデミー賞とは、誰の目にも屈辱の歴史にほかならぬからである。超一流の、それもハリウッドというよりは世界が評価する大監督にほかならぬラオール・ウォルシュも、ハワード・ホークスも、あのアルフレッド・ヒッチコックでさえ、一度としてオスカーを手にしていないのだから、アメリカ映画アカデミーなるものがいかにアカデミックな精神を欠いた人材からなっている出鱈目な組織であるかは、誰の目にも明らかである。
 また、そこにはいくぶんか個人的な趣味を介入させてもらうなら、美貌においても画面におけるその豊かな存在感においても他を圧倒していたあの大女優エヴァ・ガードナーが、ジョン・フォードの『モガンボ』(一九五三)でたったの一度だけ主演女優賞にノミネートされたにとどまり、当然それにふさわしい演技を見せてくれたマンキーヴィッツ監督の『裸足の伯爵夫人』(一九五四)でも、ジョージ・キューカー監督の『ボワニー分岐点』(一九五六)でも、アカデミー会員たちからはひたすら無視されたのだから、その選考の出鱈目さは誰の目にも明らかだろう。

 これはあまりにも滑稽かつ悲惨な事態だから、別のところに書いたことをあえてくり返しておくが、問題の非=アカデミックな組織の構成員たちは、一見したところ知的そうに見えながら実のところは到底優れた演技者とはいいがたく――『マディソン郡の橋』(一九九五)の女性像のあまりの凡庸さを想起せよ――美貌の点でもその肉感性においてもエヴァ・ガードナーとは比較にならぬほどお粗末なあのメリル・ストリープは、あろうことか三度もオスカーを獲得している。この点については、合衆国の前大統領の、彼女は「過大評価された女優」にすぎぬという評価が決定的に正しい。あのドナルド・トランプ氏も、ときには正しいことも口にしていたのである。
 すでに述べたように、個人的にはアカデミー賞という合衆国の退屈な年中行事には、まったくもって興味が持てない。にもかかわらず、これまで濱口竜介監督を高く評価する文章など多少は発表していたので、かなりの数の内外の日刊紙に短いテクストを書いたり、インタビューを受けたりした。こちらとしては、その時期におきた青山真治監督のあまりにも早すぎた死に打ちひしがれており、とても執筆どころではなかったのだが、賞狙いでやや早めに書いておいたりしたので、『ハッピーアワー』(二〇一五)や『寝ても覚めても』(二〇一八)で見るものを驚かせた濱口監督の作品の特徴や、その世代的な特質については短いながら何とか書くことができた。それは、濱口氏を始め、ロカルノ国際映画祭で注目された『Playback』(二〇一二)や『ケイコ 目を澄ませて』(二〇二二)でベルリンを騒がせた三宅唱監督、それにあの息を飲むほど素晴らしい『息の跡』(二〇一五)の小森はるかや、あのタル・ベーラ監督を驚嘆させた『鉱ARAGANE』(二〇一五)の小田香といった優れた女性監督たちの活躍ぶりをもって、日本映画の第三の「黄金時代」が始まったなどと書いてしまったいかにもいかがわしい後期高齢者の、せめてもの責任のとり方だったのかもしれない。
 NYに拠点を置くさる日刊高級紙からは、授賞当日にインタビューを受けた。アカデミー賞については一切興味がないといって断ったつもりでいたのだが、それでもなおメールの交換を望んでいる。ところが、その質問があまりに的外れだったので、即座にご免こうむることにした。それは、『ドライブ・マイ・カー』という作品の「日本性」の濃淡を問うものだったので、それなら、濱口監督が尊敬するカサベテスの『ハズバンズ』(一九七〇)について、それが「アメリカ的」かどうかといった愚かな問いをいったい誰が発するだろうかと書いてやったのである。それはTokyo発の記事には反映されていなかったが、『ドライブ・マイ・カー』は優れた作品だが傑作とは呼べぬという点だけが、難しい英語で記事になっていた。
 実際、濱口監督の問題の作品については、あまり高い評価を差し控えている。とはいえ、それは、この作品の原作が、「結婚詐欺師的」と呼んで心から軽蔑している某作家の複数の短編であることとは一切無縁の、もっぱら映画的な不備によるものだ。妻との不意の別れをにわかには消化しきれずにいる俳優兼演出家の苦悩を描いていながら、問題の妻を演じている女優に対する演出がいかにも中途半端で、それにふさわしい映画的な存在感で彼女が画面を引きしめることができているとはとても思われなかったからだ。
 亡き妻の録音された声を聞きながら、主役の西島秀俊があれこれ思うという重要なシークエンスは素晴らしい。ここの場面にとどまらず、西島秀俊はみずからが途方もない役者であることを、画面ごとに証明してみせている。だが、そのとき、見ているものは、彼の妻だった女優の顔を、ありありと記憶に甦らすことができないのである。あれこれのスキャンダルから、このところ語られることが控えられているとはいえ、女優という点でなら、『寝ても覚めても』の唐田えりかの方が、遥かに鮮明な人物像で画面を彩っていたと思う。

『空に住む』(二〇二〇)を遺作として逝ってしまった青山真治監督の葬儀には、親しい存在を葬るという振る舞いが躊躇され、参列することを回避せざるをえなかった。NYを拠点とするさる日刊紙――面倒な手続きを回避して、あっさりと「ニューヨーク・タイムズ」と書いてしまう――は、世界的な映画作家と呼ぶほかはない青山に対するいかなるオマージュも捧げようとしていないのだから、あくまでアカデミー賞という合衆国の田舎者的な国内行事の視点しか持ちあわせていないことになる。その点、「リベラシオン」紙や略称「レザンロック」誌のようにごく当然のオマージュを青山真治に捧げてくれたフランスに較べて、件の高級紙は国際性において遥かに劣るといわざるをえない。合衆国という文化的な風土は、とりわけマスメディアにおいては、芸術作品というものが必然的に収まる純粋の他者性ともいうべきものにいたって鈍感なのである。あらゆる優れた作品は、それがどれほど身近に感じられる主題と戯れていようと、わたくしたちの誰にとっても、「純粋の他者」として姿をみせるもののはずではなかろうか。そして、田舎者と呼ばれる人種は、「純粋の他者」性というべきものを、既知の領域にとどまったまま考えようとする者たちなのだ。
 最後にくり返しておくが、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』は決して悪い映画ではない。個人的には『寝ても覚めても』の方を好んでいるが、これだって決して悪い作品ではない。また、『偶然と想像』(二〇二一)も素晴らしかった。ただ、どれもこれもが水準を遥かに超えている濱口竜介の作品といえども、現在の時点で、青山真治監督の傑作『EUREKA ユリイカ』(二〇〇一)の域にはまだ達していないといわざるをえない。

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