些事にこだわり

パソコンの故障は、この電子装置への感性的な執着をより強固なものとしてくれたのだろうか

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第11回を「ちくま」1月号より転載します。小誌連載や筒井康隆氏との対談本などの執筆に際して起こっていたささやかだけれど重大な事件とは――。

 仕事机の上にどさりと置かれ、かなりの空間を占拠しているパソコンという名の電子的な装置に、これといった愛着を覚えることはまずなかったといってよい。例えば、ブルー・ブラックのカートリッジを装填した年季もののモンブランの万年筆の場合、あたりに見あたらずふと気がかりになっていたりするときなど、それがあまり着なれぬスーツの内ポケットや手鞄の底から出てきたりすると、いつもほっとして心が安まるものだが、それに似た愛着のようなものを、このパソコンに対してはついぞ覚えたためしはなかったのである。
 然るべきキーに触れればたちどころに作動してくれるその装置との関係は、もっぱら職業的な習慣性というか、機械的な即応性というか、いずれにせよ、こちらの意志に応じて作動してくれればそれで充分であり、それ以上の執着というものはなかったといってよかろうかと思う。だから、あるとき、こちらの意志とはいっさい無縁に、その作動を身勝手に止めてしまうことだって大いにあろうとは思っていたものの、そうした瞬間の到来は、これという確かな理由もないのに、遥か先のことだと確信していた。
 ところが、ついせんだって、年来の酷使に耐えかねるというかのように、目の前の電子装置は、こちらの指示に従うことをぴたりと回避してしまう。電源を入れても、画面の中央に小柄なクエスチョン・マークが点滅するばかりで、こちらの指の動きには一向に従おうとはしない。だから、これといってとり乱すこともなく、ああ、とうとうこの装置も故障するという特権を誇示しているのだと、ごく冷静に受けとめた。それから、これまたごく冷静に、個人的なエージェントであるS氏宛てにスマホで実情を報告したところ、数分もしないうちに、信頼のおけそうな修理屋のアドレスが送られてきた。そこで彼には感謝の思いを伝え、改めてごく冷静な口調でその新宿支店とやらに電話をすると、梱包してお送り頂ければすぐさま診断し、然るべき処置を施させていただくとの快い答えを得た。もちろん、修理不能という場合もありうるが、できるだけお客さまが満足できるかたちでお返しすることをモットーとしていると相手はいうのだから、ごく冷静にその事態を受けとめたわたくしは、梱包に必要な資材なるものがどこにあるか、自宅のそれに相応しい場所をあれこれ思考し始めてみた。
 ところが、その瞬間、わたくしは、改めて窮地に追いこまれた自分自身と向き合わざるをえず、取り戻したはずの冷静さを失うことになる。その日の午後までに、四百字づめ原稿用紙二、三枚ほどの原稿を、さる編集者に渡さねばならぬことに思いあたったからである。そうしないと、年内刊行予定の筒井康隆氏との共著『笑犬楼 vs.偽伯爵』(新潮社)の編集作業に大幅な遅れが出てしまうだろう。しばらく映画ばかりにかかりきり、日本の文学についてじっくりと語る機会などほぼなかっただけに、思いきり丹精こめて筒井氏の傑作『時をかける少女』を論じた二十枚ほどのテクストを仕上げていたのだが、その初校ゲラに然るべき加筆訂正を行わねばならなかったのである。
 そこで、たちどころにスマホを取り出し、そこに然るべき文学批評的なテクストなるものを打ち込み始めたのだが、これまた古い古いちっぽけな代物だったのであっという間に電源が低下し、たちまち画面は真っ黒になってしまう。そうした傾向はこれまでも見られていたが、精魂こめて綴られた文章を受けとめるには、それはあまりに脆弱な装置でしかなかったのである。改めてチャージしてみるものの、ほんの数行打っただけで電源はごくあっさりと尽きてしまう。かくして、わたくしは、その日、パソコンとスマホという二つの電子的な通信装置の申しあわせたわけでもあるまい抵抗によって、ものを書く手段から思いきり遠ざけられてしまったのである。では、どうすればよいのか。
 一時は途方に暮れていたわたくしは、ワードプロセッサーがなければ自分自身で文字を書けばよいのだというごく当然の結論に達するまで、一時間の余も茫然として過ごすしかなかった。一本の鉛筆と一枚の紙がありさえすれば、文字などいくらでも書けるはずではないか。不意にそう思い立ったわたくしは、「久方ぶり」という語彙には到底収まりがつかぬほどの長い時間的な空白ののちにボールペンを握りしめ、白紙――しばらくそんなものは必要としていなかったので、原稿用紙などあたりには見あたるはずもなかった――に文章を書き始めると、これが意外にさまになっていたので、ほっと胸を撫で下ろした。キーボードを打っていればごく簡単に画面に形成される厄介な漢字が素直には書けなかったので、あえて辞書などを引いて確かめたりしてみると、それが奇妙なまでに新鮮で、書くことはむしろきわめて快い体験だったとさえいえたと思う。
 では、文字など、書こうと思えば誰にでもごく容易に書けるはずなのに、パソコンとスマホのほぼ同時の失調ぶりを前にして、ただただ必須の手段を奪われたという意識に苛まれ、紙を前にしてペンを手にしさえすればよいという事実に目覚めるのに、なぜこれほどの時間が必要だったのか。それが、習慣の力の怖ろしさというものなのだろうか。いずれにせよ、白紙にボールペンで書いたテクストを読み直してみると、筋は充分に通っているし、文体もほぼ問題はない。その日の午後、わざわざ拙宅に来られた二人の編集者にその手書きの文章をいくぶんか照れながら手渡したのはいうまでもない。
 そのことに深く満足されたからではなかろうと思うが、そのお二人は、故障していたわたくしのパソコンからたちどころに複数のコードを引き抜き、それを両手でかかえると、あたかもそれがその日の予定であったかのような自然さで、新宿の修理機関まで運んで行かれた。しかも、その日の夕暮れ前に、十日ほどで修理が可能だとの悦ばしき知らせまでもたらして下さったので、安堵した。
 実際、彼らに拉致されたわがパソコンは、ほぼ二週間後に、あたかも何ごともなかったかのような呆気なさで、その所有者のもとに梱包された宅急便として送り返されてきた。しかるべき枚数の一万円札を配達員に支払ったのはいうまでもないが、それとて安いものだという印象を持った。また、見事に開かれた画面の色彩は、以前よりもさらに鮮明なものに思われ、そのとき、わたくしは、この電子装置に、初めて愛着に似た思いをいだきさえした。故障中には、念のため、この隔月連載が掲載さるべき「ちくま」の編集部には、来月分の原稿は、ことによると手書きのものをファックスで送ることになるかもしれぬとあらかじめ知らせておいたのだが、幸いなことに、この原稿は、いま、完璧に修理されたパソコンで、ごくすらすらと書かれている。それが仕事机の上から消滅している間は、そのことを執筆依頼を断る口実につかってやろうと思っていたが、それもまた無駄な配慮でしかなかったのである。

 ところが、それですべてが元どおりに回復したわけではなかった。すでに触れたように、使い古したスマホがほぼ機能不全に陥ってしまっていたからである。それを回復させることなどもはや不可能だろうから、これは新機種に買い換えるしかあるまい。いつもはあてもない逡巡がともなうはずなのに、この決断は自分でも驚くほど迅速になされた。
 そこで、複数のそれらしき住所に連絡して、電話口での対応がもっとも丁寧だったさる繁華街のオフィスまであえて出向き、新たな機種の購入を申し出た。対応してくれた男性係員の説明はきわめて懇切丁寧だったので、すぐにも新機種が手に入るものと思っていると、それが厄介きわまりなく、二時間におよぶ滞在ののちに明らかになった事実は、しかるべき書類とともにまた翌日その場に戻ることでしかなかった。どうしてそのことをあらかじめ電話口でいってくれなかったのかと文句をつけようとしたが、事態の混乱を避ける意味で、こちらはひたすら鄭重さに徹していた。
 そこで、必要な紙片類を整え、その翌日に同じ場所に足を運ぶと、こんどはさらに慇懃な女性職員が対応してくれたのだが、彼女は何ごとか意味不明な言葉を呟きながら不意に姿をくらますかと思うと、ふたたび書類や複数の機種を抱えて戻ってきたり、誰だかわからぬ人物と電話で話して許可をえたりをくり返したりしているうちに、いつの間にかまた二時間が経過している。
 かくして、新しいスマホを手に入れるには、二日もかけて計五時間以上もの時間が無駄としか思えぬかたちで浪費されてしまったことになる。隣の席で何やら訴えている中年女性は、こちらが到着する以前からその場におり、すべてが終わって帰ろうとするときもなお執拗な説明を受けていたのだから、この複雑さはいったいどこから来るのだろうかと訝しく思わずにはいられない。たしかに、「なりすまし」等々、スマホを利用した犯罪まがいの事態が多々発生しているのは事実だとしても、新たな機種の購入に二日がかりで五、六時間もが必要だとはとても思えない。独占企業の殿様商売といってしまえばそれまでだが、商取引のコストとパフォーマンスという点からしても、これは異常な事態だとしかいえまい。だからといって、これといった解決策をわたくしが持っているわけではない。

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