些事にこだわり

理由もなく孤児だと思ってしまった、ごく鄭重な少年との出会いに導かれて

蓮實重彥さんの短期集中連載時評「些事にこだわり」第8回を「ちくま」7月号より転載します。夕暮れ時、筆者の前に不意にあらわれたこざっぱりとした身なりで鄭重な応接をする少年。彼の正体に思いを馳せて戦中の記憶がよみがえる――。

 年の頃は七、八歳だろうか、やや小柄でこざっぱりとした身なりの少年が、目の前を足早に、たった一人ですたすたと歩いている。こちらは駅前の商店街での買い物をすませ、決して軽くはない品々の入ったバッグを肩にかけ、いくぶん疲れ気味に家路をたどっていた夕暮れ時のことである。すると、少年はいきなり立ち止まり、あたりに目を走らせ、こちらの存在に気づいたのかいきなり近寄ってきて、すこぶる慇懃無礼な態度で、少々お訊ねしますがと口にする。このまま進めば羽根木公園にたどりつけますでしょうか。
 ああ、それは反対です。この道をとって返し、井の頭線の踏切を渡ってまっすぐに進み、そのつきあたりを右に曲がって、と答え始めると、こちらが言葉を終えるよりも以前に、ご親切に、まことにありがとうございましたとことさら丁寧に礼を述べる。そのとき通りかかった自転車に乗った青年が、いきなり携帯の画面から目をそらせ、こちらの妙に大人びた対話に耳を傾けていたらしく、ああ、羽根木公園ならこれから俺も行くところだから、一緒に連れてってやろうと提案する。だが、少年の反応は思いがけないものだった。間髪を容れず、ご親切、まことにありがとうございますと礼の言葉を口にしたかと思うと、しかし一人で行きますので、どうかお進み下さいと口にするなり、笑顔で遠ざかって行く。自転車の青年もまた、ことさら不快そうなそぶりも見せることなく、その先を進んでいった。
 だが、それにしても、どう見ても老齢の見知らぬ人物にすぎないこの後期高齢者を前にして、ことさら脅えた風も見せることなく、少々お訊ねしますがといった妙に大人っぽい言葉をその少年が口にしたことが、奇妙に小気味よく思われてならなかった。おそらく、わたくしは、彼の祖父よりも年長だったはずだと思う。ふとふり返ってみると、少年は、一定の歩調で、羽根木公園を目ざしてとことこと遠ざかってゆく。その確かな歩調を見とどけながら、何だかとてもすがすがしい気分になったものだ。
 育ちがよいのだろうか、それとも、それは個人的な慎しみの問題なのだろうか。何しろこの少年は、他人に教えを請うとき、少々お訊ねしますがという妙に大人っぽい言葉をごく自然に口にすることができたのである。それが、いまの子供たちの標準的な態度だとは、とても思えなかった。そもそも、彼ら、あるいは彼女らは、見知らぬ大人に向かって進んで声をかけたりすることはまずしない。ところが、少年とわたくしとのあいだには、一瞬のこととはいえ、正常さを遥かに超えたなだらかな社会的な関係ともいうべきものが間違いなく成立していた。あれは、いったい、いかなる存在だったのか。いったいどんな親に育てられたのだろうか。ことによったら孤児かも知れぬ。ふと、理由もなく、そんなことさえ思ったりした。

 その少年とほぼ同じ年齢だったころ、わたくしたちはまったく学校など行かずに暮らしていた。戦況――いうまでもなく、第二次世界大戦のことだが、わたくしたちは、ただ「戦争」と呼んでいた――が思わしくなく、小学校の二年生の授業は早々と打ち切りとなり、ただ家でのろのろしていた。やがて、集団疎開や縁故疎開というものが始まり、信州の母方の祖父の出身地に母と身を寄せることになったのだが、昭和十九年というから一九四四年には、荷物を運んだり疎開する品を選別したりするために東京と上伊那の小さな村とを何度も往復していた。だから、二十年の三月十日の下町大空襲の折には東京に滞在しており、夜空が真っ赤に染まったときの不気味さをいまでも鮮明に記憶している。
 ところが、問題は、その年の四月に、疎開先の村の尋常小学校に入学したときに起こった。何しろ、二年生になってからの授業は東京でまったく受けていなかったので、新学期が始まってすぐの四月まで、掛け算の「九九」を暗記する機会すらまったくなかった。このところ、愚かな疫病の蔓延によって、初等教育の施設での授業がまともにできないから気がかりだといった話をよく耳にするが、小学校二年の授業などまったく受けておらずとも、まとも――であると認識されるかは否かは、この際、度外視するとして――な大人ぐらいにはなれるのだから、無闇矢鱈と心配するには及ばない。
 村の尋常小学校には、この際、それしか方法がないので、仕方なく行ってやっているんだという意識で通っていた。「ずら」だの「だべ」だのといった言葉遣いなど、間違ってもしてやるものかと心に決めていた。ところが、若い担任――教師の大半は召集されていたので、中学を出たばかりの若造だった――が、東京の子供の実力を試そうとしたのだろうか、開口一番、わたくしを名指し、「九九」をいってみろと命じた。こちらはそんなものなど習ったためしはないので、申し訳ありません、それは到底無理だと思いますとごく鄭重に応じた。
 すると教師は、何を生意気なことをいっておるか、できなければ家で練習してこいと怒鳴るような声で命じた。わかりました。そうするよう努力致しますと応じたのだが、次にその村の子を名指したところ、その生徒はすらすらと「九九」をいってのけた。だが、暗記など真の教育の問題ではないと自分にいいきかせ、ひそかに練習にはげみ、次の週までには自分にだってできるはずだとみずからにいいきかせ、さしたる騒動もなく学校には通い続けていた。ことによると、若い教師に向かって、申し訳ありません、それはわたくしには無理だと思いますなどとごく鄭重に応じたところなど、羽根木公園への行き方を鄭重に訊ねた妙に大人びた少年に似ていたのかも知れない、と今にして思う。あれが都会の少年というものなのだ。

 羽根木公園へ行く少年に出会ってから数日後に、いきなり固定電話のベルが鳴る。どうせ碌でもない話だろうと――和服を高く買いとるだの、屋根の修理をとりわけ安価で請け負うだの、等々――高を括って受話器を取り上げると、それは何やら騒音が背後に響いている聞きとりにくい電話で、中年男性のだみ声が、俺だ、元気かという声がいきなり響いてくる。ああ、先日は還付金詐欺の電話だったが、こんどはいよいよオレオレ詐欺かよと、いくぶんうんざりしながら耳を傾けると、俺、携帯をなくしちまったんで公衆電話からかけてるんだが、元気かとくり返す。こちらは、羽根木公園の少年さながらにあえて鄭重さを気どり、携帯をなくされたとのこと、それはまことにご愁傷さまですと応じるのだが、それを無視するかのように、相手は俺だ、俺だとくり返すのみである。どうやら拙宅の固定電話の番号は、然るべき悪事のリストに登録されてしまっているらしい。
 そこで改めて鄭重さを気どり、そちら様はいったいどちらのどなた様でしょうかと訊ねると、相手はそれを無視するかのように、いまは公衆電話しかかけられないと同じ言葉をくり返すばかりだ。そんな言葉に騙されるほど令和日本の老人どもは焼きが回っているのかと思いはしたが、そのうちこちらもまた依怙地になって、あなた様の携帯番号など承知してはおりませぬが、これはいったいどこのどちら様からのお電話でしょうかとあえて鄭重に反復しているうちに、だみ声の中年男はいきなり電話を切ってしまう。やれやれ。
 たっぷりと暇があったわけではないが、腹いせに110番へ電話をかけ、事の次第を警視庁に報告した。すると、それは●●警察の管区だから、そちらから後ほど連絡が入るので、詳細を伝えてほしいといってその電話は切れた。そして、その十分後に、自分は●●警察のものだと名乗る女性からの電話がかかってきた。そうである事実を貴女はいったいどのようにして証明するつもりなのかとじんわり絡んでやろうかと思いもしたが、今日は羽根木公園の少年さながらの鄭重さに徹しようと努めて、あえてわざわざお電話を下さりありがとうございますと素直に応じた。
 オレオレ詐欺の電話がかかってきた時刻、声の調子、そして何をいったか、等々、についての問い合わせに、わたくしはごく几帳面に答えていった。すると、今日は、代田、梅ヶ丘方面に同様の電話が沢山かかって来ているので、充分にご注意下さいと電話の主は強調した。充分に注意しているからこそ、わざわざ110番に連絡してやったのではないかと抗弁しようとしたが、つとめて鄭重さを装い、ありがとうございましたという礼の言葉で電話を切った。だが、ひたすら鄭重さを気どっていても、世の中が円滑に機能するとは限らないところに、厄介さの本質がそなわっている。ときには、鄭重さなど糞食らえと思っている男女だって、少なからず存在しているに違いなかろうとさえ思う。
 ところで、これという理由のないまま、なぜか孤児ではなかろうかと思った少年は、ことによると、わたくし自身の生まれ変わりだったのかも知れないと、いまにして不意に思ったりもする。以後、ここしばらくは、少年に倣って、慇懃無礼さに徹してみようかなどと思っている老齢の男が、この映えない令和日本に、たった一人だけ存在していることは、間違いのない確かな現実である。

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