些事にこだわり

ロシアのハッカー集団による電子装置の乗っ取りと韓国の若者による「パロディアス・ユニティ」の回顧上映の企画とは、刺激的という意味で驚くほどよく似ていた

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第18回を「ちくま」3月号より転載します。ネットがもたらすさまざまな難事と快事について。なかんずく快事中の快事たる韓国の若者による伝説的映像製作集団「パロディアス・ユニティ」の特集上映への助力依頼について。ご覧下さい。

 とうとう、あの邪悪きわまりないウイルスとやらに感染してしまった。もっとも、その点に関するごく醒めた視線の持ち主にとってなら、この絶望的な感染はごく自然な事態の推移だったのかもしれぬ。いうまでもなかろうが、惨めにもそのウイルスに住みつかれてしまったのは、これからこのテクストを書こうとしている特定の個体ではなく、その執筆に加担しつつある何やら精巧な電子的装置そのものにほかならぬ。もう十数年その古ぼけた装置を自堕落に使用しているが、どうやらそのメールアドレスが世界でよく知られたロシア系のさるハッカー集団に乗っ取られ、その結果として、わたくし自身と偽った大量の迷惑メールがこの地球上のあらゆる土地に送信されていたらしい。しかも、それを不気味だとも理不尽だとも思わなくなっているほど、こちらの電子的な神経は摩滅していたようなのだ。
 どうもおかしいなと思い始めたのは、メールの送信機能があるときぴたりと停止されてしまったからである。あいかわらず、有用無用のメールは大量に送られてくる。だが、送信手段の方は機能不全に陥ってしまった。そこで、送信は携帯電話――「スマホ」という意味不明なあの醜い語彙だけは使いたくない、と口にしながらすでにその言葉を書き込んでしまっているのだから、それは矛盾そのものだといってよい……――のちっぽけな画面に、欧文のメールをアクセント記号なしにちまちまと打ち込んだりしていたのだが、書くだけはかろうじて可能だったその大型の電子装置からは、何しろメールの送信が機能不全に陥ってしまったので、難儀して書きあげた原稿をメールの添付資料として編集者に送ることもまた不可能となってしまった。何とも仕方がないので印刷したものをファックスという古めかしい装置で驚くほどの時間をかけ、出版社のナンバーに一枚ずつ送付せざるをえなくなったのである。
 当然のことながらそれも億劫になってきたので、その点に詳しい信頼のおけるさる若い友人――若いとはいえ、さる会社のれっきとした社長である――に相談したところ、いち早く拙宅まで足を運んで委細を点検してくれたのだが、どうやら事態は彼の力量を遥かに越えていたようだ。そこで、その社長様の紹介で信頼のおける技師に出張を依頼したところ、すぐさま駆けつけてくれて、たっぷりと半日ほどの時間をかけて事態を解明してくれた。その技師の指示にしたがって慣れ親しんでいた電子的な装置を廃棄して新しいものにとり換え、事態はどうやら収束したかに見えた。確かに、画面は新鮮きわまりないほど鮮明なものへと変貌し、それをどのように駆使したらよいのか皆目見当もつかない機能も目に見えて充実したものとなった。充実しようがしまいが、個人的にはその恩恵に浴することなどあろうはずもないのだが、そこにいたるまでにそれなりの額の経費が伴ったことはいうまでもない。

 ところが、事態はそれにとどまるものではなかった。その新たな装置を明け方まで駆使して意気込んで書きあげた四百字の原稿用紙で五十枚ほどの決して短くはないさる原稿が、翌朝、またもや画面からすっかり姿を消してしまっている。それには、絶望という言葉には尽くしがたい感慨に囚われ、それなりの時間と労力を無駄にしてしまった筆者としては、思わず深いため息をつくことしかできなかったのである。
 しかし、ただ絶望しているだけでは事態は解決しない。そこでまた改めて若い友人に相談したところ、すぐさま駆けつけて、失われた原稿を難儀しながらも探り当ててくれはしたのだが、それに新たな文面を書き加えたはずの完成稿は、翌朝、またもや画面から消滅している。ふたたび有能な技師に出張を依頼したのはいうまでもない。彼は、すべてをことごとく解決してくれたのだが、ロシア系のハッカー集団云々が明らかになったのは、そのときにほかならない。その間、二ヶ月ほどもの時間が虚しくすぎて行ったので、この隔月連載の前号の原稿もまた、筑摩書房の編集部まで古めかしいファックスで送られたものだったが、どうやら今回は、メールに添付というこれまでの原則を維持することができるはずである。
 それが請け負った仕事だから当然といえば当然なのだが、若くて親しい友人の依頼で何度も拙宅を訪れ、わたくしの仕事机の前にでんと陣取り、厭な顔ひとつ見せずに長時間の操作を完遂された技師さんによると、国外のハッカー集団による乗っ取りは、海外と頻繁にメールの交換をする人間にはよく起こることだという。ところが、奇妙なことというべきだろうか、わたくしの電子装置のメールアドレスを乗っ取ったというロシアのさるハッカー集団への憤りや腹立ちのようなものは、まったくといってよいほど感じることがなかった。むしろ、よくやってくれたという賛辞のような思いがこころのどこかに揺れていたと書いた方が正しかろうと思う。
 なるほど、あれはいまから数年前のことだったが、ロシアの知人であるエイゼンシュテインの世界的な権威やその助手という人物たちと、メールの交換――こちらはロシア語など理解することのない身であるが故に、いずれも英語を介して――を何度もしたことがある。また、旧ソ連の偉大なる映画作家ボリス・バルネットに関する書物を執筆中のフランスのさる映画研究者とのメールの交換も頻繁に行っており、彼がロシアとの電子的な交流が盛んな人物であることは容易に想像できるので、そんなところから極東のさる晩期高齢者のメールが狙われたのかもしれぬが、もちろん、彼ら、あるいは彼女らがわたくしのメールアドレスに着目した意図などとうてい推察しがたい。
 ところで、いまからほんの数時間まえまで、わたくしは『散文は生まれたばかりのものである――「ボヴァリー夫人」のテクストに挿入された「余白」についての考察』というテクストの最終校正にかかわり、さる文芸雑誌の編集部とのメールや電話での対話に腐心していたのだが、そこでは、パリ第八大学でながらく教鞭をとっていた親しい友人のジャック・ネフ教授が校閲した『ボヴァリー夫人』(二〇一九)の「新版」について多くの言葉を費やしていた。ところが、校正の最終段階で最後の問題点を編集者と電話で何とか解決してほっとしたまさにその瞬間、奇しくもネフ夫人のエロイーズから一月遅れの年賀状が届いたので、その偶然の符合に吃驚仰天したものだ。
 ジャック・ネフという固有名詞に少なからず言及したテクストが極東の島国の首都で最終的に印刷にまわされようとしていたまさしくその瞬間、フランス共和国の首都に住むジャックの奥方からのメールが届き、しかもそこには近く東京で再会できそうだという文面が読まれたのだから、快哉を叫ばずにはおれなかった。だから、さるロシアのハッカー集団に乗っ取られようが乗っ取られまいが、この電子的な交流手段を進んで祝福せずにはいられないのである。

 ごく最近の海外とのメールの交換は、ネフ夫妻が暮らしているフランスや合衆国――彼はボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学の教授でもあった――、さらにはオーストラリア、カナダ、スペイン、ポルトガル、韓国、台湾などがほとんどだが、今朝ほども、下北沢を舞台とした武田真治と吉川ひなの主演の『Tokyo Eyes』(一九九八)や『北野武 神出鬼没』(一九九九)など、日本を舞台とした興味深い作品で名高いジャン=ピエール・リモザンから、ウィリアム・A・ウェルマン監督の『女群西部へ!』(一九五八)という興味深い作品を見たがお前はもちろん知っているだろうなというメールが届いたので、それはMGMの鬼才ドア・シャリーが製作した拾いものというほかはない小粒だが優れた西部劇であるが、監督のウェルマンの作品でいえば『牛泥棒』(一九四三)という戦時中の作品も見逃してはならぬと書き送ったところ、それはまだ見ていないので、早速探してみるとのことだった。
 このところ、わたくし自身の『凡庸な芸術家の肖像――マクシム・デュ・カン論』という決して短くはない旧著と、これまたかなりの量がある『ジョン・フォード論』との韓国語訳とがほぼ同時にソウルで刊行されたので、韓国とのメールのやり取りもかなり盛んなものとなっている。この国とのメールの交換はそのほとんどが英語によるものか、通訳を介しての日本語によるものとに大別されるが、ついせんだっては、途方もなく見事な日本語による未知の韓国人からのメールが届いた。しかも、その内容がこちらの予想を遥かに超えるものだった。何しろ、立教大学の「パロディアス・ユニティ」の8ミリ作品の回顧上映を行いたいからと助力を求めるものだったのである。
 現在の韓国の若者――自分は若いとそのメールには書かれていた――が「パロディアス・ユニティ」というかつての日本の若者たちの製作集団の名前を知っていることだけでも驚きだったが、現代日本の若い映画好きのはたして何人が、その名前をしかと心得ていることだろうか。いうまでもなく、それは黒沢清、万田邦敏の両監督が立教大学の学生時代に捏造した製作集団の名前である。しかも、その韓国の若者からのメールには、正確にはその集団に属してはいなかったはずだが、その上映会には青山真治の8ミリ作品も含めたいといった贅沢、かつ刺激的な言葉まで書き込まれていたのである。「パロディアス」については万田邦敏監督に、青山の8ミリ作品には女優のとよた真帆に連絡をとったが、その成果のほどはまだわからずにいる。
 だが、それにしても、現代韓国の若者といまから三十年も前の立教ヌーヴェルバーグの温床との思いもかけぬ結合は、ロシアのハッカー集団によるどこの誰とも知れぬさる個人のメールアドレスの乗っ取りと同じぐらいに魅力的かつ刺激的なものに思える。だが、ことによると、それは国際的な電子環境においては、ごくごく普通のことなのかも知れぬ。