些事にこだわり

久方ぶりに烈火のごとく怒ったのだが、その憤怒が快いあれこれのことを思いださせてくれたので、怒ることも無駄ではないと思い知った最近の体験について

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第17回を「ちくま」1月号より転載します。昨秋に開催された小津安二郎生誕百二十周年のメモリアル・イベントは、なぜ失望のうちに終わってしまったのか。その二十年前、著者自身も深く関わった生誕百年・没後四十年の記念イベントとの違いを思い起こします。ご覧下さい。

 なかには例外的に聡明な個体も混じってはいるが、これからこの文章を書こうとしているわたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」であるという経験則を強く意識してからかなりの時間が経っているので、その「愚かさ」にあえて苛立つこともなく晩期高齢者としての生活をおしなべて平穏に過ごしている。ところが、ごく最近のこと、久方ぶりにその「愚かさ」にからだが震えるほど腹を立てた。これだけは許せぬ、許してはならぬと憤ったので、その例外的な事態について、ごく例外的に触れておかざるをえぬ。それが、思いもかけぬ爽快な記憶を喚起してくれたからである。
 その不意の立腹は、今年でその生誕百二十周年を迎えたさる歴史的な個体を祝福するための行事の「愚かさ」に向けられたものだ。東京国際映画祭の枠内で行われた小津安二郎という名で知られている歴史的な個体をめぐる十月二十七日の三越劇場における国際シンポジウムのいい加減さに対する憤怒だといってもよい。国籍、性別、年齢を遥かに超えたその映画作家としての例外的な活動を通してこの宇宙と素肌で向かいあってしまった稀有の存在としての小津に対して、この出鱈目な行事の無礼さは誰の想像をも凌駕しており、聴衆のほとんどを烈火のごとく怒らせたのである。
 このシンポジウムは東京国際映画祭の枠内で行われたと書いたが、厳密には、そのシンポジウムに参加した黒沢清、ジャ・ジャンクー、ケリー・ライカートという素晴らしい出席者の顔ぶれの人選に映画祭がかかわっているのみで、三越劇場というおよそ非=映画的な空間の選定やシンポジウムの時間配分、等々、については、さる広告代理店――オリンピックをはじめ、この組織が絡むと碌なことにはならない――と音楽専門のラジオ局J-WAVEなどがかかわっているとのこと。それに、どうやらヴェンダースの新作『Perfect Days』の製作にかかわったTHE TOKYO TOILET Art Projectなる組織も加担しているようなのだが、そのシンポジウムを司会したのは小津についてはまったくもって無知としか思われないJ-WAVEのラジオ・パーソナリティの女性でしかなく、登壇者たちの作品を熟知しているとはとても思えぬので、彼女や彼らの発言にまともな質問をすることすら敵わぬ始末。しかも、三人の映画作家が充分に語ったとはとても思えぬ時期にごく曖昧に討論を打ちきり、あとは「フォト・セッション」とやらで、聴衆どもの大半がスマホを登壇者に向けて掲げるという不気味かつ無意味な行事でシンポジウムを終わらせてしまった。
 何という発言者たちへの非礼さ。何という聴衆への侮蔑。そして何という無駄な時間の浪費。しかも、それを非礼とも侮蔑とさえ意識しえない司会者の「愚かな」楽天性と、こんなことで国際映画祭が成立すると考えている国際感覚を欠いた関係者たちの職業意識の驚くべき低さに、からだが震えるほど腹を立てたのである。聴衆の中には親しい顔ぶれも何人か混じっていたが、事態の推移に誰もが唖然としており、だからみんなで悪口をいいあうのも無闇と疲れそうなので、親しい女性が見つけてくれたタクシーにさっと滑り込み、孤独に夜道をたどるしかなかった。何という虚しい夕暮れから夜だったことか。

 小津安二郎は、間違っても、日本を代表する世界的な映画作家などではない。そんなことは、黒澤明にでも任せておけばよろしい。小津は、すでに触れておいたように、国籍、性別、年齢を超えて宇宙と無媒介的に触れあってしまった例外的な映画作家にほかならず、到底「日本性」などにはおさまりのつかない天涯孤独な映画作家にほかならず、そんなことは、彼の描く日本家屋に神棚も仏壇もほとんどといってよいほど姿を見せておらぬことから、明らかなはずである。わたくしの『監督小津安二郎[増補決定版]』(ちくま学芸文庫、二〇一六)を読むまでもなく、それは明らかなはずではないか。近著『ジョン・フォード論』(文藝春秋、二〇二二)でもそうだったが、『駅馬車』(一九三九)の作者の国籍である合衆国性やその家族の出身地であるアイルランド性といったものをいったん忘れたことにして――当然、知っておかねばならぬ――そのフィルム的な現実と素肌で向かいあわぬ限り、映画を論じることなど到底できはしまい。
 実際、溝口健二とともに、小津ほど映画の現在を揺るがせ続けている映画作家は世界にそう存在してはいない。であるが故に、彼をめぐるシンポジウムを計画したりその司会を任されたりしたなら、これまで彼が世界からどのように見られ、どのような映画作家や批評家たちを惹きつけ、いかなる機会にいかに論じられたかを知っていない限り、小津の生誕百二十周年を祝う事業に加担する権利などないといわざるをえない。だが、不幸にして、J-WAVEにも、THE TOKYO TOILET Art Projectにも、そうした知識が徹底して欠けているといわざるをえない。
 確かにヴェンダースは、小津を詳細に語った西欧の最初の映画作家だったし、小津をめぐる彼の『東京画』の撮影にはわたくし自身も積極的に加担しはした。まだお元気だったころの小津のキャメラマン厚田雄春さんを彼に紹介したのもこのわたくしである。だが、それはすでに四十年も昔のことであり、いまでは新しい世代の監督たちがこぞって小津を語る時代になっている。その意味で、東京国際映画祭のプログラム・ディレクターである市山尚三氏が提案された黒沢清、ジャ・ジャンクー、ケリー・ライカートという三人の登壇者の選定は全くもって正しいというしかない。だが、シンポジウムの運営者たちは、わざわざ合衆国の西海岸の北部から来日され、しかも傑作というほかはない『ファースト・カウ』(二〇一九)の公開がいま熱烈に期待されているライカートがいったいどんな言葉で小津を語るかに胸を躍らせた気配すら漂わせておらず、しかも、その発言が他の登壇者の反応を引き出そうとしているのを全く無視してしまう。これに腹を立てずにいられようか。
 市山さんから小津シンポジウムへの招待状を頂戴したこのわたくしは、遠出を避けて家に閉じこもることの多い晩期高齢者である。だが、敬愛するケリー・ライカートの言葉だけはぜひとも聞きたいと思い、後半のシンポジウムだけに参加することにした。楽屋でライカートその人と遭遇し、簡単ながら言葉を交わし得たのは無上の悦びであり、それは市山さんのお陰である。東京国際映画祭の企画と呼ばれていながら、その主催者はまったく別であることを知らされ、そのときから、この企画は惨めな失敗に終わるだろうとの予感がなかったわけではない。だが、まさか、これほど惨憺たるありさまで終わるとまでは予感できなかった。市山さんは、司会者があまりに頼りなさそうなので自分も登壇するといっておられたが、彼の登壇もこのあまりの悲惨さを救うことなど到底できなかったのである。

 何も、昔はよかったといった話ですむ問題ではない。とはいえ、小津安二郎の生誕百年を祝い、その没後四十年を追悼するという国際シンポジウム「OZU 2003」を親しい友人でありかつまた同志ともいうべき吉田喜重氏と山根貞男氏――お二人とも、昨年暮れから今年の初めにかけて、惜しまれつつも物故された――とともに企画し、当時は朝日新聞の記者だった古賀太氏をプロデューサーに迎え、三人で司会を務めたときのことを甘美な記憶として想起せずにはいられない。それが成功であったか否かは聴衆の判断にまかせるしかないが、大きな国際的な反響を呼んだことだけは確かである。実際、その数ヶ月前に行われたニューヨークのリンカーン・センターとコロンビア大学共催の小津をめぐる国際シンポジウムでは、誰もがこの催しについての大きな期待を口にしていた。とりわけ、世界的な映画作家たちの参加が彼らの関心を惹きつけたのだが、日本からは、黒沢清、青山真治、是枝裕和ほか数人が登壇することになった。
 わたくしたちのと呼んでよかろう「OZU 2003」は有楽町の朝日ホールで二日間にわたって行われ、今回のシンポジウムとは比較にならないほどの数の聴衆を前にして、マノエル・デ・オリヴェイラ、侯孝賢、アッバス・キアロスタミ、ペドロ・コスタといった国際的な映画作家をはじめ、ジャン=ミシェル・フロドンやシャルル・テッソン、さらにはクリス・フジワラなどなど、世界の代表的な批評家たちに加えて、淡島千景、井上雪子、岡田茉莉子、香川京子といった小津の主演女優たちにもご登壇いただいたという大規模かつ華やかなものだった。それには一五〇頁を超えるプログラムブックが準備され、その記録は『国際シンポジウム 小津安二郎 生誕100年記念「OZU 2003」の記録』(朝日選書753、朝日新聞社、二〇〇四)という書物として残されているから、誰もが手にとって見ることができる。
 何しろ海外から十人近くの映画作家や批評家たちが来日したので、その準備に途方もない時間と労力が必要とされたのはいうまでもない。だが、この企画の成立は呆気ないほど単純なものだった。あるとき、都内のさるホテルに吉田喜重、山根貞男、蓮實重彥の三人が集まり、そこでいきなり、来年は小津安二郎監督の生誕百周年にあたるが、何もせずにおいてよいのかという話になり、誰いうとなく何かやらねばなるまいということとなり、即座に朝日新聞社の古賀太記者(当時)に電話して、このホテルのさるカフェまですぐに来てくれないかというと、了解しましたと請け合うなり十五分もしないうちに彼が姿を見せた。そこで、これこれのことをやりたいと決まったので協力してくれないというと、やりましょうという彼の一語ですべてが決まってしまったのであり、そのために改めて会議を開くこともなかった。そのとき、わたくしは、即断こそがことを簡単に運ぶ奥の手だと覚った。その準備期間中に、誰も烈火のごとく怒ったりしなかったのはいうまでもない。

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