些事にこだわり

「科学技術」という言葉を耳にしたら、およそいい加減な話だと確信して、黙って聞き流せばよい

蓮實重彥さんの連載時評「些事にこだわり」第13回を「ちくま」5月号より転載します。なぜH3ロケットの打ち上げは失敗したのか。明治期以来の日本特有の事情としてある「技術(=工学)」と「見切り発車」について。

 ことさら誇らしげに語るべき話題でもなかろうとは思うが、さる三月七日に予定されていた宇宙航空研究開発機構(JAXA)と三菱重工とが共同開発した新ロケット「H3」の打ち上げは、絶対に成功しまいと確信していた。遅れに遅れていた発射がいまさらうまく行くはずもなかろうと、素人目にも思えたからである。もっとも、ロケット「H3」がまったく飛ばなかったわけではない。いったん空中に飛び立ちはしたものの第二段エンジンに着火せず、打ち上げから数分後――より正確には835秒後といわれている――に指令破壊信号が発せられてフィリピン沖の海上に落下し、藻屑と化したという。それが深海の生態系にしかるべき影響を及ぼさぬはずもなかろうが、それについてはひとまず語られることはない。
 とはいえ、その打ち上げの失敗でほれ見たことかと胸をはり、溜飲をさげたというわけではない。「H3」の打ち上げ失敗を確信していたといっても、これという確かな理由があってのことではないからだ。なるほど、三菱重工は、巨額の資金を浪費した後に国産のジェット機生産からごく曖昧に撤退したことでひどく評判を落としはしたが、そもそもそれが二一世紀の日本で産業として成立するか否かといった国家戦略がごく曖昧なまま、経済産業省の後押しで行われた企画だと聞いている。
 他方、文部科学省が管轄している宇宙航空研究開発機構の場合、まさか産業化が目ざされているわけではなかろうが、一度の打ち上げで100億円近くかかるといわれていた途方もない費用を半減とまではいわぬにせよ、しかるべく減額すべしとの意向は、開発にかかわる研究者や技師たちにも共有されていたはずである。それが失敗の原因だとはいうまいが、しかし、と思わずにはいられない。どうせやるなら、打ち上げ費用のことなど、いったんは忘れるべきである、と。「忘れる」とは、いうまでもなく、ひとまず視界から遠ざけるといったほどの意味にほかならぬ。ロケットが無事に宇宙へと達し、搭載されていた衛星が軌道に乗ることこそがその絶対的な目的だからである。打ち上げの失敗で衛星まで失われてしまったのだから、その痛手は金銭でははかりえぬものがあるはずではないか。
 では、なぜ、素人以前といってよかろうこの後期高齢者のわたくしが、漠然とはながら「H3」の打ち上げ失敗を予測しえたのか。確かなことはわからない。ことによると、それは、わが令和日本におけるいわゆる「科学技術」なるものの想定を超えた地盤沈下と深く関係しているのかもしれない。その地盤沈下を象徴しているのが、二〇一一年三月一一日のいわゆる東日本大震災の巨大な津波でその機能を失った福島第一原発の事故であることはいうまでもない。その設計者たちは、まさか一二メートルを超える津波が来るとは思わなかったと口にしているようだが、起こりうるあらゆる事態に対応するというのが「科学」的な態度だとするなら、彼らはいささかも「科学」的ではない。では、何的と呼べばよいのか。

 わが令和日本の貧しい言説空間には、「科学技術」といういかなる辞書にもまったく載っていない語彙がわがもの顔でひとり歩きしている。「科学」と「技術」とは意味がまったく異なる二つの概念を指示する単語にほかならず、それが並置された場合、前部が後部を修飾するというのが日本語では一般的な理解である。とするなら、これは「科学的な技術」を意味しているのだろうか。どうもそうとは思えない。それなら、そう書けばよいはずだからである。どうやら、この国には、平成七年に制定された「科学技術・イノベーション基本法」という不気味な名前の法律が存在しているようなのだが、その成立に貢献したとされる国会議員の諸姉=諸氏は、この意味不明な語彙からなる法律の制定に当たって、「科学技術」とはいったい何を意味しているかを、多少は考えられたのだろうか。勿論、そんな気配はまったく感じられないのだから、国会議員なるものを信頼すべきではない、といった退屈な結論を導きだしたいわけではない。
 いうまでもなかろうが、「科学」とは真理の探究にほかならず、その探究に成功したかしないかで、「科学」が「科学」として成立したか否かが決まる。例えば、二〇〇二年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏は、太陽系外で発生したニュートリノの実在を観測によって証明したのだし、同じく二〇〇八年に物理学賞を受賞した益川敏英、小林誠の両氏は、そのお二人が予言した如く「クォーク」が間違いなく六つあることが証明され、その理論の正確さが確立したのである。
 それと同じ年に物理学賞を受賞した南部陽一郎氏が一九二一年生まれで、小柴氏も一九二六年生まれであり、益川氏が一九四〇年、小林氏が一九四四年生まれだとすると、わが国の科学研究がもっとも活況を呈したのは、一九二〇年代から敗戦の年にほかならぬ一九四五年にかけてといういずれも戦前、戦中生まれの方々が戦後に活躍された時期のことだといえるかも知れない。いわゆる「科学技術」なるものの想定を超えた地盤沈下と書いておいたのは、そうした一時期との明らかな対比においてである。
 勿論、一九〇七年生まれの湯川秀樹氏、一九〇六年生まれの朝永振一郎氏という例外的な天才を無視することはできないが、日本という国の教育――中等、高等、大学――制度が真の意味で機能したのは、戦前、戦中生まれの方々が自由奔放に思考をかさねてこられたこの時期だとひとまずいえることになりそうだ。では、なぜ、物理学ばかりをとり上げたかというと、それが日本人の聡明さに相応しい学問だと個人的には思えるからであり、それが正しい姿勢であるか否かはいまは問わずにおく。また、なぜこの一時期に注目したかというと、それがわたくし自身の受けた教育制度だったからだといえば、あまりに虫のよい言い方だということになるかもしれぬので、そうと強弁することもまた控えておく。だが、一九世紀最後の年に生まれた川端康成を湯川=朝永的な例外とするなら、ノーベル文学賞を受賞した唯一の日本の現代小説家である大江健三郎氏も、この世代に属しているといい添えておくことぐらいは許されようかと思う。

 ところで、話題を「科学技術・イノベーション基本法」という不気味な名前の法律に戻すなら、というより、正確には「科学技術」といういかなる辞書にも載っていない語彙の不気味な氾濫ぶりに話題を戻すなら、「科学」とは客観的な証明によって「真」と見做されるものへと到達するための一連の運動である。それに対して「技術」とは、「科学」と無縁ではないが、例えばそれを公共の福祉に活用すべく、科学に範をとりつつもどこかで「真」とは無縁の見切り発車を強いられる活動なのである。その見切り発車が生活の改善に資する場合がほとんどであるはずだが、その見切り発車が不運な結果に陥ったのが、福島第一原発の事故にほかならない。
 ここでひとこといいそえておくなら、工学的な「技術」というものは、「科学」ではないものとして、ながらく大学から排除されていた。それが「真」と無縁のものだったからである。それが教育機関として整備されたのは、皇帝ナポレオン一世が権力を握った一時期にほかならず、彼はいわば軍隊組織を模倣するかたちで工学系のエコール・ポリテクニークを作りはしたものの、世界に「工学」というものを研究教育する大学は存在していない。名高いMIT、すなわちマサチューセッツ・インスティテュート・オブ・テクノロジーだって大学(University)ではない。日本の場合は、明治時代に作られた帝国大学に「工学部」を置いたという例外的なケースなのである。
 そうした日本の特性を考慮するなら、工学的な思考から来るこの「技術」という問題は、時代の風潮により敏感で、ある意味では社会情勢にも左右されがちのものだから、見切り発車にまったく意味がないわけではないが、そのことの犠牲もまたうけ止めねばなるまい。実際、この原発事故は、いまなお解決しがたい問題として、あらゆるものの精神と肉体を脅えさせている。いうまでもなく、核分裂とは原子物理学によって確かめられたきわめて科学的な現象にほかならず、それを電力の大量供給に貢献さすべく福島第一原発は作られたはずなのだが、その過程で、例えば津波の高さに対するいささか楽観的な解釈がそうであるように、「技術」を持つものたちは、ある種の見切り発車を恐れなかったのである。
 だが、原発をめぐる「技術」の見切り発車はそれにとどまるものではない。現在、稼働中の原発は一〇基といわれているが、それらから放出される高レベルな放射性廃棄物をどこでどう処分するかも、いまだにまったく決まってはいないというのが現状だからである。そうした廃棄物が安全になるまで一〇万年という気の遠くなるほどの歳月を要するとされているが、いったいこのちっぽけな日本列島のどこにそんな処理場を見いだすことができるのか、政府はいうまでもなく、役人たちもまたまったく解っていない。これが、原発をめぐる見切り発車の最たるものだが、その「技術」の問題はいわば本質的に解決しがたいものだといわねばなるまい。いずれにせよ、わたくしたちは、「科学技術」という言葉を耳にしたら、およそいい加減な話だろうと確信し、黙って聞き流しておくほかはなかろうと思う。