File 120. 「大津波警報」が出る前に、読んでいた本

　そして2024年1月1日、元旦の午後4時過ぎにそれは起こった。
　盆と正月と秋祭りは外せない気質の能登人、つまり正月は人が集まる日だ。コロナ自粛もあけ、ようやく今年数年ぶりの帰省を果たした人もあったろう。お雑煮を食べ、お節料理を食べ、年賀状を読み、その返事を書き、さあ投函しに行こうと思い立ったのが午後3時前。
　郵便局、海の近くのスーパー、寺参り、そして3時半過ぎに近くのお宮でおみくじを引いた。わたしと夫は大吉、娘は中吉であった。いったん皆で帰宅したが、宮当番が当たっていた夫は、「オレ、4時に宮の片付けに集合だから行ってくる」と出かけた。
　わたしは娘とキッチンのテーブルでとっておきの珈琲豆を手回しミルで挽き、買ってきたケーキを食べ始めた。モンブランと珈琲、最高の組み合わせである。そして二口目のケーキを食べようとしたとき、初動の揺れがあった。咄嗟にテーブルの下にもぐる。あー、三度目、起こるような気がしていた、だって最近小さな余震が続いていたもの。
　しかし愚かにもわたしはこの時点でさえまだ「石川県は地震が少ない県だから」と思っていたのである。キッチンテーブルの下から出て、これをまた片付けるの？　もう嫌だよ……思った数秒後、いまだかつて体験したことのない大きな揺れがこの家を襲った。
ああああー冷蔵庫倒れてきた、食器の割れる音がする、何、壁まで剝がれてきちゃって、ブチッて言わなかった？　何か切れたの？　その途端に停電、そしていつまでも終息したくないように揺らぎ続けた大地の上のテーブルの下で、七匹の子ヤギがお母さんの帰りを待つように、悪いオオカミが早くいってしまうように、わたしはひたすら娘の名前を叫び続けた。
　それは護符であった。自分の命は失われてもいい、せめて娘だけは助けて下さいという祈りは名前を叫ぶことだった。
　揺れが落ち着いた、ストーブは消した。もう落ちたものや割れた食器をかき分けてスリッパ履いてリュック背負って、とにかく逃げなくちゃ、だって大津波警報のサイレンが繰り返し鳴っているから。
 「大津波警報、津波が来ます、今すぐ高台のほうに逃げてください」
　何度も何度も繰り返し放送される。夫は宮から帰る途中で大地震に遭遇し、尻もちをついて納屋が倒壊する現場を見たという。とにかく家族全員を家から出すために戻ってきた。テーブルの下に隠れていたわたし、奥の部屋で義母を守っていた娘。
　長靴ないならサンダルでもスリッパでも誰の靴でもいい、とにかく逃げるぞ、という夫に娘はまだスマホか何かを探している。現代の子どもにとってスマホは命よりも大切なのかもしれない。
　わたしは10月に人工股関節の手術をしていて早く走れないので、悪いけど先に逃げるよ。津波警報が出たら行こうと決めていた高台がある、避難所に指定されている小学校は海の近くなんだもの、そんなところに逃げたくはない。『波』の主人公のようにはならな　い、わたしと家族だけは生き残る。
　そう言いながら津波てんでんこ、つまりは自分だけ一足早く家を出た。行動の指針としてわたしを動かしたのは「津波てんでんこ」の鉄則（東北地方は宮沢賢治が生きていた頃から、いやそのずっと前から何度も津波の被害にあってきた、そのたびに「各自の命は各自で守れ、警報出たらとにかく高台に逃げろ」と教え込まれる）だ。
　グラウンドに体育座りして誰かの指示を待っていてはいけない。おかしい、とおもったら即行動。それがわたしの家族全員生き残り大作戦だった。誰か一人先に高い場所に行って手を振るのだ。こっちに来い、ここまで来て、と。
　納屋につながれていた柴犬を連れ出すことはできなかった、パニックになっているわたしには、冷静さを失うと人を噛む犬を連れて逃げる選択肢はなかった。悪い飼い主でごめん、納屋の脇を通り過ぎるとき、心に棘がささった。わたしたちにもう生きものを飼う資格はない、と思った。