File 120. 「大津波警報」が出る前に、読んでいた本

  『波』の語り手は、ロンドンに暮らす知識人だ。それでも故郷のスリランカに帰ることを忘れない。
　盆と正月に奥能登の人が故郷に帰るように、クリスマス休暇と夏休みにはスリランカの自分が育った家に家族を連れて帰ることが重要だった。おじいちゃんとおばあちゃんにも孫と一緒に過ごしてほしい、そのために忙しいスケジュールをやりくりして、ロンドンからコロンボへの航空便を予約する。ときに子どもたちに嫌がられながらも、夫のスティーヴはユーモアのセンスにあふれた愛すべき家族だった。
　翻ってわたしは、最近のコロナ下で正月の集まりが自粛されていたことが何よりもラッキーだと思っていた。だって奥能登のヨメ  ときたら、親戚が集まればその食事の算段をしなければならない。
　近くにおしゃれな大手スーパーやケータリングサービスはない、マクドナルドもブックオフもないようなところだ。あるのはコンビニエンスストアとドラッグストア。人口1万3000人の町にこれでもか、といわんばかりに出店攻勢をかけてくる。
　そんな町で古本屋として立ち続けてきた。
　でも心はいつも揺れていた。わたしは何をやりたいのだろう、本当にこれでいいのかしら。心は17歳のホールデンのまま。家父長制なんて滅びればいいんだわ、また通い婚みたいにしてさぁ、嫁の実家が娘の子どもを仕切ればいいんじゃないの？　
　元日に息子一家が帰らず、12月29日から31日に帰るわ、1歳半の娘と、5カ月の赤ちゃんを連れて、と連絡があったとき、義母の呟いた嫌みは聞き流した。しかし結果的にはそれは僥倖であった。
　奥能登は思いのほか地形が入り組んでいる。グーグルマップではなく、国土地理院が発行する5万分の１でも２万５０００分の１の地図でもいいから見てほしい。最短距離をさがすのではなく、人の暮らしのあり方を想像しながら地図を見てほしい。
　海岸線は一方向に平坦ではない、東南向きのところ、北向きのところ（輪島市がある側）、舟隠しと言われる洞窟から漁港が出入りする港まで様々だ。海もあれば山もある、それが魅力で若い移住者も増えていた。
　今回のこの地震はマグニチュード7.6と言われ、阪神・淡路大震災よりも大きいとの計測数値が出ている。幸い、というべきか、わたしたちの地区には津波は来たが高台を襲うような大津波ではなかった。
　自分の家族のことだけを言えば、ソナーリのようにはならなかった。わたし一人だけが生き残ったのではなく家族は犬も含めて全員無事だった。しかし、この地震の怖いところは「人」ではなく「町、もしくは集落」そのものがごっそりと破壊された、ということである。
　専門家の分析によれば、能登半島の下には何層かに分かれた地震プレートがあり、今回の地震ではそれらが次々に連鎖反応を起こしたのではと解説されていた。海岸線そのものが隆起し、港が港として使えない、大地が盛り上がり、マンホールは現代アートのように突き出て注意喚起の三角コーンが置かれているところがある。
　これはなんだ、これはどこだ、以前のままの風景と、ハリウッド映画の戦闘のあとのように破壊しつくされた浜側の旧通りが交錯する。あれから１カ月以上過ぎた今でも、珠洲市の被害の全貌が数値化されたとは言いがたい。
　現地から遠く離れた人の情報源は、わたしがスリランカの大津波のときにそうだったように、公共放送の流す音声と映像だろう。
　どれも事実であるが、真実ではない。真実は体験した人の数だけある。
　入り組んだ地形と、地区ごとに向きが違う海岸線で、生死が分かれ被害の様相が異なる。今回、津波がひどかったのは海岸が東向きに近い地域だ。わたしたちの住む地区は能登では珍しい「真南」向きの地域だ、『餓鬼草子』の本の中でしか見ることが出来なかった「木製笠塔婆」が発掘された本江寺遺跡の近くである。遺跡、といっても田んぼ脇に一本木の杭で表示がしてあるだけだけれど。