人はアンドロイドになるために

2. アイデンティティ、アーカイヴ、アンドロイド 後編

アンドロイドと人間が日常的に共存する世界を描き、「人間とはなにか」を鋭く問いかける――アンドロイド研究の第一人者・石黒浩が挑む初の近未来フィクション、いよいよ連載開始!

石黒氏による「僕が小説を書く意味」は→こちら

 

 ハルはユキとのユニットを休止して、今まで断ってきたようないくつかの仕事を引き受けてみることにした。だから仕事に困ることはなかった。

 ただ、心に穴が空いたような感覚はある。ハルにとってユキは、自分がミュージシャンとして成功する以前から、何者かになる前の幼少期からずっといっしょだった数少ない友人でもある。そして、音楽的なパートナーとしては「こいつと組めば勝てる」と思った、唯一の人間だ。ハルの要求に完璧に応えられたのはユキだけだった。ユキもハルに対し、クリエイティビティ、オリジナリティといったことを執拗に要求した。

 ユキという存在は、ハルという、才能をひけらかすようなことをしがちで、政治的な発言や下半身のスキャンダルで物議をかもすことも多い問題児が生きていくうえで必要な、世の中との緩衝材でもあった。ハルはユキが自分に対して厳しいことも言ってくれること、時にはいきすぎなくらいキレてくれることで、自分のことを冷静に、客観的に見つめる機会を何度も得てきた。口論しているうちにバカらしくなってハッとしたり、素直に反省させられたり……いい関係だと思ってきた。

 ハルにとってユキは自分の音楽活動には必要不可欠な分身であり、何がしたいのかを互いにわかりあえているつもりだった。しかし、違った。半身が奪われたようなショックがある。「機械に仕事が奪われる」「アンドロイドに音楽を奪われる」などという考えはバカげている。ハルはそう思っていた。だが、斜め上からの方向で、そういう事態になった。

 ハルはアンドロイド制作を手がけるAEラボラトリ社の工房――と言っても美術家のアトリエのような静謐かつ広大な空間だが――で「型どり」の作業へ向かうあいだ、これから何を本気の音楽活動としてやっていくべきか、ずっと考えていた。

「型どり」とは何か、簡単に説明しておこう。

 型どりは、当時のアンドロイド制作にはほとんど必須の工程だった。アンドロイドは、誰かに依頼すれば自動的にできあがるものではない。物体・生体の3Dデータを簡単にスキャンできるようになる以前には、通常、生きている人間本人の協力が必要だった。

 皮膚の細かい模様まで再現するために、歯医者が歯型を取る素材と石膏を使い、頭部や手などの型を取るのだ。

 二〇畳ほどの工房でハルは服を脱いで下着姿になり、五、六人のスタッフに囲まれるなか、全身を石膏で覆われていった。女性のスタッフは、ハルの鍛え上げられた筋肉にため息を漏らしていたが、ハルは考え事をしていたせいもあって、ふだんのように愛想を振り撒き、軽口を叩いて食事に誘うことを忘れていた。

 ほとんどの人間は、この工程を体験して、面食らう。いかにたいへんな作業かを、知らないからだ。ハルもそうだった。

 何がたいへんか。まず、からだを覆う素材が冷たい。歯形を録る素材は、冷たいまま固まっていく性質をもつ。一方で、合わせて使う石膏のほうは、熱を発生しながら固まる。こちらは熱い。はじめに歯医者が使う素材を顔にかける。そして、それがたれないうちに、ガーゼと石膏を交互に当て、固定していく。最初は冷たいのに、急に熱くなっていく。

 この作業は、目を閉じたまま進行する。真っ暗ななかで、頭が部分的に冷たくなったり、熱くなったりする。ハルは気持ちわるさのあまり、それまでの思考が吹っ飛んでしまった。

 さらに、作業の終盤にさしかかると、鼻の穴だけを残して頭全体が覆われる。この状態では口は完全にふさがれ、呼吸は鼻からしかできない。また、皮膚全体が石膏で固まっているから、顔の筋肉は一切動かすことができない。体もだ。その状態で二〇分ほど耐えなければいけない。二〇分のあいだには、つばも出てきて飲み込みたくなる――このときが問題だ。つばを飲み込むときは一瞬気道がさえぎられる。その一瞬がこわい。二度と気道が開かなかったらどうしようという恐怖に、誰しもが襲われる。生き埋めになるかのような感覚。二〇分が、とほうもなく長く思えてくる。

 苦しい時間である。

 地獄だ、とハルは思う。アンドロイドをつくるなんて言ったばかりに、ユキが離れていき、こんな目に遭わなくちゃいけないのか。選ばれし者の栄光に預かっているはずなのに、前向きな気持ちにはなれそうもなかった。

 くそったれ、絶対にユキにも社長にも、俺の正しさをわからせてやるからな――と怒りがわいてきたところで、作業は終わる。

 型どりから解放され、工房を照らす蛍光灯の明かりが目に刺さる。何人ものスタッフの姿が目に入り、口々に「おつかれさまでした」「大変だったでしょう」と声をかけてくる。マネージャーの高橋が、愛飲しているメーカーのスパークリングウォーターを差し出す。そして気づく。口からでも、鼻からでも、好きに呼吸できるということに。水も、つばも、自由に呑み込める。たった数十分の儀式ではあったが、生まれ変わったようなすがすがしさがあった。

 この作業は、アンドロイド制作におけるイニシエーション、子どもが大人になるための通過儀礼のようなものだ。こうした過程を経て、誰かとそっくりな姿かたちをしたアンドロイドは誕生する。

 本人が肉体的に苦しいのは、この工程だけである。あとは、本人の動きや歌を細かく再現していくために、造形、機械、電機、人工知能のエキスパートたちと打ち合わせを重ねていくことになる。その過程でほとんどの人間は、型どり作業のときには最悪だったアンドロイド制作に対する印象を、徐々に好転させていく。子どもが成長するように、アンドロイドは少しずつ完成へと向かい、できなかったことができるようになる。オリジナルである本人に、似てくる。

 それはハルにとって、作曲し、アレンジし、楽曲を打ち込み、録音し、マスタリングしていく作業と感覚的に近いものだった。ミュージシャンは、細かな作業を膨大に積みかさねることで作品をしあげていく。アンドロイドを調整していくプロセスは、彼にとって自分の作品をつくることそのものだった。

 時間を費やせば費やすほどに、彼は自分のアンドロイドに愛着がわき、また、音楽活動にどう活かすかのアイデアが浮かんできた。型どりの苦しみは、いわゆる「産みの苦しみ」だった、と思えるようになっていった。

 ――こいつはおそらく、ユキの喪失を、ユキとはちがったかたちで埋めてくれる相棒になるだろう。そうするしかない。時間が経てば、あいつもわかってくれるはずだ。そうしたら自分とアンドロイドとユキの三人で活動してもいい。

 自分の録音スタジオに招き入れた完成品のアンドロイドと対面しながら、ハルは妄想を膨らませた。

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