ちくま文庫

コンクリの下の声は聞こえているか
ちくま文庫30周年記念

 昨夏、旧・国立競技場の解体を巡る諸問題についての取材を進めるなかで、競技場に隣接する都営霞ヶ丘アパートに長らく住まう人たちの話を聞いた。信じがたいことに、ある日、郵便受けに投函された紙切れ一枚で取り壊しの決定を知らされた彼らは、怒りに震えながら「また、出ていかなければならない」と漏らした。なぜ、「また」なのか。住民のなかには、国立競技場建設にあわせてアパートに越してきた人もいたのだ。つまり、一九六四年の五輪で住まいを奪われ、二〇二〇年の五輪で再び住まいを奪われることになった、というわけ。彼らに対して丁寧な説明はない。何度か通った住民説明会では、「決まったことですので……」と逃げるJSC(日本スポーツ振興センター)に向けて怒号が飛んだ。落とした財布が戻ってくると国際社会に自慢した「お・も・て・な・し」は、財布どころか、根付いていたコミュニティを早々に盗み捨てたのである。

 一九六三年、東京・入谷で起きた誘拐事件・吉展ちゃん事件を追った本田靖春『誘拐』は、オリンピックの開催を控えた東京を活写している。「急速に払拭されて来た「戦後」に、はっきりした線引をつける意味合をこめて、官民の手で東京に誘致されたオリンピック」によって、「工業優先の日陰に取り残されることになった農村の人たちは、実りの少ない耕作に見切りをつけて、底辺の労働力としての都市集中」を始めざるを得なくなった。出稼ぎ農民たちは、入谷からそう遠くない山谷の簡易旅館街から、国立競技場をはじめとしたオリンピック関連工事で汗を流したのである。福島から上京してきた犯人の小原保は、右足に障害を持ち、時折、吃音者のようにどもることもあった。彼に戻るべき郷里はなく、膨張していく東京にも、身の置き場をつくることができなかった。後に彼は、獄中で短歌を詠み、そのペンネームを「福島誠一」とした。東京に揺さぶられながら失った故郷を想う名前だった。

 小原保が吉展ちゃんを誘拐した当時、警察は営利誘拐についての知恵や経験を持ち得ておらず、マスコミへの情報公開、犯人との折衝、身代金の引き渡し方法など、手探りのまま、慌てふためいていた。皮肉なことに、この稚拙な捜査が戦後を代表する名作ノンフィクションを生んでしまったとも言える。犯人を取り逃がした警察は、あたかも被害者の家族側にその原因があるかのように、捜査陣の方針に従わない家族像を漏らすのを忘れなかった。結果として、「犯人は彼女(筆者注:母の豊子)と意思を通じる男性でありかねない」という憶測記事まで呼び込むことになった。自宅には脅迫電話が相次いだが、本田はその有り様を「自分を特定されない空間に置き、受動的な立場をしか選べない相手を、思いのままにいたぶる。(中略)奥深くひそめた残忍さを、海中の発光虫のように、隠微に解放させている」と書く。若き命が奪われる事件が起きるたびに、匿名の発光虫が被害者家族までをもいたぶろうとする働きかけは、残念ながら今の時代に、より増長されている。

 本作に限らず、本田は、踏んづけられた個人を見つめ、踏んづけた上に舗装される世間を疑い、コンクリの下から聞こえてくる底流の声に聞き耳を立てた。人が摩耗していく様に目を向けず、リセットボタンを押せば忘却できるとのさばる権力の横暴に向かう姿勢を貫いた。無論、自分が籍を置いていたメディアへの警鐘も忘れない。犯人逮捕の見出しに「解決」が使われることに対して、「それは社会全般に通じる解決を意味しはしない」として、事件をこなすように伝える報道を疑うのだった。

 今、再び、書店で『誘拐』を頻繁に見かけるようになった。書店の仕掛け販売がきっかけだという。本書を、凶悪事件の顛末を描いたノンフィクション作品、とまとめることもできるが、それだけならば半世紀前の事件を扱った本書に読者の興味は新たに向かうまい。この作品からは、いつの時代にも生じ得る、世の流れから置いてけぼりにされる個人の息づかいが聞こえてくる。本書は過去の記録だが、まったく残念なことに、この苦い息づかいは現在の体感としてもスライドできてしまうのである。

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