専門は人類学です、と言うとしばしば「文系ですか?」と訊かれますが、私の専門は理系の人類学です。人類学はもともと解剖学から派生した学問で、人骨などを比較して人類の系統や多様性を研究することから始まりました。少し斜に構えた言い方をすれば医者が趣味で始めた学問であると言えなくもありません。人類そのものの本質、変異、起源に関する研究が解剖学から独立した一つの学問分野となり、人類学(Anthropology)と呼ばれるようになりました。
1960年代、『悲しき熱帯』や『野生の思考』で知られるクロード・レヴィ= ストロース(Claude Lévi-Strauss)が脚光を浴び、文化人類学(Cultural Anthropology)の研究者人口が増加したこともあり、日本ではこちらの系譜に連なる文系の人類学の方が広く知られています。単に「人類学」と言うと「文化人類学」を思い浮かべる人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。理系の人類学は自然人類学あるいは形質人類学(Physical Anthropology)と呼んで文系の人類学と区別しています。欧米では生物人類学(Biological Anthropology)と呼ぶ方が一般的です。ただ、本当は理系とか文系とか超えたところに人間は存在するので、こうした学問的なカテゴリーは、そもそもあまり意味がないのかもしれません。
自然人類学の長い歴史の中では、考古遺跡などから出土する過去に生きた人々の古い骨を計測したり、生きている人々の間で観察されるバリエーションを分析する研究がメインでした。今でもそうした研究は盛んに行われていますが、私は骨の形態ではなく遺伝子について研究しています。そして、自分の専門分野のことを遺伝人類学とか人類集団遺伝学と呼んでいます。この分野は、人類集団における遺伝子のバリエーションを研究する学問です。遺伝子のバリエーションは、人間の個性の生物学的な基礎になるものです。もちろん遺伝子だけで個性が決定づけられるわけではありませんが、現在さまざまな面白いことが分かってきています。
そこで、「チンギス・ハンのDNA」です。
近年、世界中の人類集団のDNAのバリエーションについて、大規模な研究が数多くなされてきています。大規模の意味としては、研究対象とする人類集団の数や個体の数が大規模であるとともに、もっと最近ではゲノム網羅的な研究が増えて、扱う個々のデータそのものが大規模化しています。東アジアにおける遺伝子のバリエーションについての研究も盛んです。
そうした中、イギリスの研究グループが、ユーラシア大陸の特に中央アジアから東アジアにかけてチンギス・ハンのDNA、特に男性を決定する遺伝子が載っているY染色体について、チンギス・ハンの持っていたY染色体のタイプが爆発的に拡散しているという説を唱えました。このことはいったい何を意味しているのでしょうか。あなた、もしくはあなたの隣の男性がチンギス・ハンのDNAを引き継いでいるかもしれない、ということでしょうか。
この本では遺伝子の研究からそのような説に辿り着くまで、そのプロセスも含めて順を追って解説していきたいと思っています。