単行本

文明史観を大きく塗り替える
『馬・車輪・言語』と出会って

PR誌「ちくま」6月号から、単行本『馬・車輪・言語』刊行に寄せたコラムを転載します。原著との出会い、翻訳にあたっての苦労、訳していくたびに啓かれていく未知の風景から、あらたに沸き上がってきた疑問まで、本書を熟読した翻訳者ならではの思いをお読み下さい。

 二〇〇七年に米国で刊行された原書、The Horse, the Wheel, and Languageの存在をいつ最初に知ったのかは記憶にない。
 きっかけは、スポークに相当する日本語が輻(や)という、大半の日本人がまず読めない漢字であることに衝撃を受け、車輪の歴史に興味をもったことだった。調べてみると、轂(こしき、ハブのこと)、軛(くびき)、轅(ながえ)、轆轤(ろくろ)など、車偏の漢字は驚くほど馴染みのない字が多い。極めつけは「轄(かつ)」だ。管轄、所轄などの言葉は知っていても、「轄」がリンチピンのことで、車輪が車軸からはずれないように挿すものであることを知っている人は少ない。
 乗馬が人類史を大きく変えたことを学んでからは、東海道五十三次に描かれた牛馬の数をかぞえてもみた。浮世絵に描かれた馬はほとんどが引き馬で、車輪ときたら、幕末の大八車のものですら、平安時代の牛車と変わらない構造だった。日本が歩んできた特殊な歴史は、そのころから私の関心事だった。

 「馬、車輪、言語」と、まさに長年の私のキーワードがそのまま並んだような書名の本を取り寄せ、気圧されるほどの厚さの本を開いてみたところ、冒頭から惹き込まれた。著者の文章は非常に平易で、素人にも充分にわかる説明になっていたが、一つの結論を導きだすに当たっての道筋には、舌を噛みそうな地名や文化名が並ぶ。「考古学と歴史言語学を隔てる無人地帯を越え」、「編年、文化集団、起源、移住、および影響をめぐって錯綜する議論に道を切り開こうとした」という著者が経てきた苦労がよくわかった。従来の考古学は、物証がなければ調査対象にしてこなかったが、これではまさに鍵をなくしたのに、そこだけ明るいからと言って街灯の下を探すようなものだからだ。

 歴史言語学の説明は、見慣れない印欧祖語の横文字が頻出するために、多くの読者を挫折させてしまうかもしれない。しかし、ここはいまや世界最大の語族となった印欧語の話者の価値観が、日本人の感覚といかに異なるかがよくわかる部分なので、難しい音韻論はさておき、辛抱して読みつづけていただきたい。
 一方、考古学の面では、このまるで縁遠い地域と日本との不思議な接点を見出す人が多いだろう。屈葬、ベンガラ、縄目文のある土器は、縄文時代の遺物との関連を思い起こさずにはいられない。古墳時代の箱式石棺墓などは、土坑内に石を並べたアファナシエヴォ後期の墓とそっくりだ。
 これはまったく突飛な想像ではないかもしれない。中国の最初の王朝である商(殷)は、紀元前2000年ごろにアファナシエヴォ文化がアルタイ山脈から天山山脈、タリム盆地へと移動した結果、勃興したものなのだ。当初の王朝が不自然なほど内陸部にあり、高度な青銅器をもち、動物中心のダイナミックなモチーフを特徴とした理由が、そう考えればよくわかる。
 私がラーメンの器の模様だと思っていた雷紋はシンタシュタが起源の文様で、ギリシャ、ローマから中国まで印欧語を話す人びととともに伝わったものだった。昔、翻訳した本で見たタリム盆地からの前11世紀の西洋人のミイラの背景がようやく呑み込めてきた。また、沖ノ島や古賀市馬渡・束ケ浦などから出土した遼寧式銅矛は、セイマ=トゥルビノの耳付きの銅矛の改良版だと誰もが思うだろう。

 われわれは誰なのか、言語や文化は自己認識とどうかかわるのか、国民国家とは何か。そんな根源的な問いをこれでもかとぶつけてくるのが本書なのである。「これらすべての問題に関して議論はつづくだろうが、ばらばらな音から和音が現われてきたと、私は感じている」という著者の言葉どおり、今後も細部に関しては異論がでてくるだろう。しかし、本書は間違いなく、これまで信じられてきた歴史を大きく塗り替えるに違いない。

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