私は二十七歳の誕生日を迎えられなかったかもしれない―─。連載記事の取材で石川文洋さんにインタビューしていた時、ふと漏らした言葉に驚きました。
石川さんが最初に従軍した南ベトナム第二海兵大隊は一九六五年三月九日、ベトナム中部のビンディン省で南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)と遭遇し、激しい銃撃戦となります。初めて経験する本格的な戦闘でした。
ホアイアンの丘をはい上っていた海兵隊は、解放戦線の待ち伏せを受け、丘の上から一斉射撃されました。立って撮影していた石川さんは、「伏せろ!」という米軍事顧問レフトウィッチ少佐の叫び声を聞き、地面に倒れ込みます。わずかに顔を上げて前方を見ると、少佐は被弾して顔から血を流し、さらに前の米軍中尉は狙撃されて動かない。即死でした。その間も石川さんの?を銃弾がかすめ、「シュッ、シュッ」と空気を切り裂く音がしていました。「戦闘の日付を今でもはっきり覚えているのは、翌日の三月十日が私の誕生日だったからです。撃ち殺されていたら、二十七歳を迎えられませんでした……」
世界一周の無銭旅行に出て、香港経由でたまたま行くことになった国がベトナムです。第二海兵大隊に従軍取材することになり、いきなり激戦地に飛び込んだのですから、無防備にカメラを構えていたのも仕方ありません。「この時は初めての戦闘だったので恐怖感はありませんでしたが、従軍を重ねるうちに、だんだん怖くなっていきました」と石川さんは振り返ります。
ビンディン省のタムクァンという町に野営していた時には大規模な夜襲を受け、恐怖に震えました。周囲からライフル、自動小銃が一斉に火を噴き、迫撃砲が近くで爆発します。この時の気持ちをこう書いています。〈あすも生きていられるなら、これかぎり従軍はやめよう。私は世界を見たい、恋もしたい、結婚したら妻といっしょに映画を見にいき……〉(本書141ページ)。二十代の若者の切なる願いですが、この後も石川さんは死線をさまようような取材を繰り返すことになります。
命懸けで取材した軍事作戦の中でも「イーグル・フライト」は最も危険な作戦かもしれません。少数の兵士を解放戦線が押さえる村に送り込み、少数だとみて攻撃を加えてくると、後方の大部隊が包囲する。先に送り込まれる兵士は、サメをおびき寄せる撒餌(まきえ)になるようなものです。石川さんは、沖縄出身の土池敏夫(どおいけとしお)・米軍一等兵とヘリコプターに乗り、この危険極まりない「おとり作戦」も撮影しました。
沖縄の首里(しゅり)生まれの石川さんは、すぐに土池一等兵と親しくなりました。「彼のおばあさんが住んでいた所が、私の父の家がある那覇の西武門(にしんじょう)だったので、民謡のニシンジョウ節や好物のゴーヤーチャンプルのことを話したのを覚えています」
しかし、二カ月後、同郷の若い友人は、ヘリから降りたところを銃撃され死亡します。十九歳でした。彼は兵役に就くと三年で米国の市民権を得られるので米軍に入隊しました。沖縄から離れて自由な生活をするのが夢だったのです。
悲劇の背景には、沖縄の置かれた過酷な環境があります。二人が出会った頃、沖縄はまだ米国の施政権下にあり、日本に復帰していません。故郷の地には米軍基地が次々と建設され、〈沖縄はいまやアメリカの巨大な軍事基地である。軍事基地のなかに、われわれの沖縄があるようなものだ〉(本書238ページ)という様相だったのです。この閉塞状況から逃れるため、米軍基地を嫌う青年が選んだのは、悲しいことに米軍の兵士になる道でした。
五十年以上たっても状況はまったく変わりません。いや、むしろ米軍基地はより増強されようとしています。八十歳になる石川さんは、米軍基地建設が進められている沖縄県名護市辺野古(なごしへのこ)や東村高江(ひがしそんたかえ)のヘリパッドの建設現場に足を運び、時には建設に反対している人たちと共に泊まり込みながら取材を続けています。石川さんが撮影した写真とルポを私が受け取って編集し、共同通信社から全国の新聞社に何度も配信しました。
辺野古のルポにはこう書かれています。〈私はいま、沖縄で生まれベトナムほかの戦争を取材したカメラマンの視点で、辺野古新基地建設を見ている。米軍はベトナムの農村を徹底的に破壊し、そのために多くの農民、子ども、老人が死傷していく様子を目撃した。年には、嘉手納基地からB52爆撃機がベトナムへ出撃する状況を撮影した。基地内ではベトナムへ派遣される兵士が訓練をしていた。牧港補給地区にはベトナムへ送られる物資が山と積まれていた〉
高江のヘリパッド建設現場で県道を歩いていた時には、四人の若い機動隊員にぴったりと囲まれます。石川さんは歩きながら「ベトナム戦争では嘉手納基地を飛び立った爆撃機が、ベトナムの子どもや老人を死傷させたんだよ」と機動隊員に語りかけました。彼らは黙っていましたが、関心を持って聞いている気配を感じたそうです。
ヘリパッド建設現場では集会が毎日開かれ、反米軍基地の運動を続ける人たちが交代で演説し、輪になって合唱していました。この様子を見た石川さんはルポに書きます。
〈ヘリパッドだけでなく全ての米軍基地に反対する人々の熱気が感じられるが、長野県に住む私は、この東村高江の状況が、どのくらい本土に理解されているのか疑問に思う〉〈本土の人々も、東村高江の問題は日本全体の問題であることを知るべきだと思う〉
沖縄と本土との温度差は、本書にも描かれています。石川さんが従軍生活を終えて日本に帰った時、沖縄の人たちはベトナムの戦場の写真を見て涙を流し、戦争が早く終わることを願いました。ところが、東京では石川さんの話に本気になって耳を傾ける人はいなかったのです。
年を取った沖縄の人ほどベトナムに同情する思いが強かったのは、沖縄戦の体験によるものでした。沖縄県民の四人に一人が死亡し、日米の兵士を含め犠牲者は二十万人以上と言われています。ベトナムの農村が攻撃されると、老人や女性、子どもたちが犠牲になるという石川さんの話を聞き、地獄のような地上戦を思い出したのです。
石川さんは四歳で本土に渡ったので沖縄戦を直接は知りませんが、祖母や曾祖母から戦火の中を逃げまどった話を聞いています。生まれ育った首里周辺は激戦地となり、一帯は廃墟と化しました。本書には、ベトナムと沖縄を重ね合わせる石川さんの視線が、通奏低音のように流れています。死の危険にさらされながらカメラを離さず、農民の怒りや悲しみを撮り続けることができたのは、沖縄出身ということが大いに影響していると思います。
本書のオリジナルは、三十二年前、朝日文庫として出版されました。その裏表紙に開高健(かいこうたけし)氏は「この稀れな本はカメラだけを持って銃は持たなかった一人の歩兵の眼と心の記録である」と書きました。カメラを持った歩兵─。まさにその通り、石川さんはひたすら歩く人です。そして、歩きながら自身が見聞きしたことを基にして物事を考える人です。
北朝鮮の核・ミサイル開発が問題になっている中、沖縄駐留の米軍や自衛隊を増強して抑止力を高めようという声が大きくなっています。政治家や評論家らが唱える安全保障論の多くが、この考え方に沿ったものと言えるでしょう。しかし、机上で立てた論ではなく、ベトナムやカンボジア、アフガニスタンなどの戦場を歩き続けて到達した石川さんの持論は「軍隊は抑止力にはならない。むしろ軍隊がいるから戦争になる」というものです。
諏訪湖(すわこ)を望む高台にある自宅で、石川さんは私に言いました。「普天間(ふてんま)基地の移設と言っているが、実際には辺野古に空母級の艦船も停泊できるような巨大基地をつくろうとしている。そんな基地ができると標的になる可能性が高くなる。私が日本を攻撃する国の軍司令官なら当然『沖縄を狙え』と言いますよ」。普段は笑みを絶やさない人が、この時は怒りを隠しませんでした。
石川さんは、自身の戦争取材体験を次世代に伝えようと、各地で講演しています。なかでも学校で子どもたちに話をする機会があれば、何をおいても行くようにしています。長野県の茅野(ちの)市立北部中学校での講演は、児童書出版の童心社がまとめて「報道カメラマンの課外授業 いっしょに考えよう、戦争のこと」シリーズ(全4巻)として刊行されました。
「戦争は殺人、殺し合いです。いかに多くの人たちを殺すのかを競い合うのが戦争です。そして犠牲になるのは、いつも圧倒的に民間人が多いのです」。石川さんは、戦争についてこう語ります。実際、ベトナム戦争の米軍の死者は約五万八千人ですが、ベトナム側は二百万人を超える民間人が亡くなり、沖縄戦では、沖縄県外の日本兵の死者が約六万五千人だったのに対し、沖縄の民間人と軍属を合わせて十二万人以上が犠牲になりました。
石川さんは子どもたちに命の大切さについても語ります。「沖縄の『命どぅ宝』(ぬちどぅたから)という言葉をいつも講演で使っています。命が何より大切だということですね。ベトナムでは多くのジャーナリストが亡くなったが、私も本当に危なかった。ジープを降りて間もなく、そのジープが地雷で吹き飛ばされたこともある。運良く生き延びて命があるので、その後、世界一周の旅などいろんなことができたんだと話しています」
日本人ジャーナリスト十五人が、ベトナム、カンボジアの戦争を取材中に死亡しましたが、このうち十二人は石川さんの友人、知人でした。
カンボジアのアンコールワットに向かったまま行方不明になり、後に死亡が確認された一ノ瀬泰造(いちのせたいぞう)氏はフリーランスのカメラマンでした。ベトナム戦争を長期取材していたほとんどの日本人カメラマンは通信社に所属し給料や取材費が支払われていましたが、一ノ瀬氏は命を削って撮影した写真のネガをUPI通信に切り売りして収入を得ていました。石川さんもフリーカメラマンとしてAP通信にネガを一コマ十五ドルで売って生活していたので、「ネガを持っていかれることが身を切られるようにつらい」という彼の言葉をよく理解できたのです。
戦火を逃れて川を渡る母子の写真「安全への逃避」で一九六六年、ピュリツァー賞を受賞した澤田教一(さわだきょういち)氏とはサイゴンのレストランで「命に気をつけて頑張ろう」と話し合います。ジャール平原で激戦が続いていたラオスでも出会いましたが、数々の戦闘をくぐり抜けてきた澤田氏は七〇年、カンボジアを取材中、銃撃されて死亡しました。
澤田氏がピュリツァー賞を受けた直後、石川さんが南ベトナム海兵隊に顔を出すと、知り合いの米兵から次々と「おめでとう!」と声がかかりました。けげんな表情でいると、「日本人カメラマンがピュリツァー賞を取ったと聞いた。それは君だろう」と言われます。長期従軍して戦場の撮影を続けている日本人カメラマンと言えば、真っ先に石川さんの名前が浮かんだのです。
UPI通信の澤田氏とは違い、フリーの石川さんの写真は無署名だったため国際的な賞とは無縁でしたが、戦争当事者であるベトナムが最も高い評価を与えているカメラマンは石川さんです。一九九八年、ホーチミン市の戦争証跡(せんそうしょうせき)博物館に、石川さんの作品二百点を常設展示する施設が設けられました。第一次インドシナ戦争とベトナム戦争を勝利に導いた「救国の英雄」ボー・グエン・ザップ将軍を撮影した肖像写真は多くの出版物や放送に使用され、ベトナム国民の間でよく知られています。ベトナム政府が昨年発行したザップ将軍の記念切手にも、この写真は使われました。
ベトナム戦争は、史上最も自由に報道できた戦争だと言われています。米国や南ベトナムは記者やカメラマンの従軍取材を許可し、戦争当事国以外にも日本やフランス、英国などから多くのジャーナリストが訪れ、戦場の生々しい姿を世界中に伝えました。
世界各国で、おびただしい写真集やルポルタージュ、ノンフィクション・ノベルが刊行され、映像作品も制作されましたが、本書ほど徹底して現場を歩き写真と文字で記録したドキュメンタリーはありません。おそらく、あらゆるジャンルを通して、この戦争を取り扱った最高の作品だと言えるでしょう。
本書はまた、無数の人々の死を描いた鎮魂歌(レクイエム)であるとともに、一人の貧しい青年が、死を賭した数々の体験を通じて成長していく物語(ビルドゥングスロマン)として読むことも可能です。
若者の「生き方」に関する本が人気を集めていますが、この千ページ近い大部の著作には、人の生と死を考える上で大切なことが、「生き方」指南書などよりもずっと豊かに語られています。今回の再版を機に、若者をはじめ多くの人たちに読んでほしいと切に願っています。
『戦場カメラマン』の解説を公開します。ベトナム戦争という「冷戦の代理戦争」は、じつは日本の戦後問題、沖縄基地問題に一直線につながっています。