夏のはじめ、トークイベントに出たとき、連日政治や偏見の問題が報じられている現状とそれを知るたびに身を苛むどうしようもない無力感や悲しみや疲労感について、私はこんなふうなことを言った。私は怖いことやひどいことが起こる映画が大好きです。でも現実がもうこんなにおそろしくてひどいと、なんだかそういう映画をこれまでみたいに気軽に楽しめなくなっていくような気がします。
そのときから、私は自分が言ったことを思い出しては気分が悪くなり、後悔し続けている。くだらないことを言ってしまった。それにまちがったことを言ってしまった。
私の言い方だとまるで、怖いことやひどいことが描かれた物語は現実とはなんのかかわりもなくつくられてきたみたいに聞こえる。それに、現実の怖いことやひどいことは昨今いきなりわっと起こっただけであって、それまではなにごともなかったみたいに聞こえる。
そんなはずはない。怖いことやひどいことを物語として構築するのは、私たちをおびやかすものに形を与え、私たちが一体なにを恐れているのかを確認するという、生きていく上で決して欠かすことのできない作業だ。そして、さまざまな報道によってはじめて世の中に蔓延する偏見や差別の強さを思い知るというのなら、それはこれまでふさいできた耳を、閉じてきた目を開くチャンスに恵まれたことを意味する。
私は、子どものころからいわゆるホラーと呼ばれるものやその周辺のものにむやみに惹きつけられていた。いつも本や映画の前で、怖いことやひどいことが起こるのを待ちわびていた。爆発が起こるとうっとりして、モンスターが愛しくてたまらず、人がたくさん死ぬのがうれしかった。理不尽な破壊と暴力のリズミカルな繰り返しが、私を元気にした。私は決して私の身に現実に起こる破壊と暴力に耐えることはできないだろう。でも物語の中でなら、私は死や病や災害すら愛することができる。そればかりか人為的にもたらされる破壊と暴力に対しては、登場人物とともにこちらが破壊と暴力の化身となって徹底的に戦い、拒むことだってできる。
そんな、私にとってずっと大切だったものを、私は自分自身の発言でだいなしにしてしまった。いや、私はさいしょからわりとだいなしのままでここまで来てしまっていたのかもしれない。現実の前で耳をふさぎ、目を閉じてきたのと同じように、物語の前でも私は半ば耳をふさぎ、目を閉じた状態でただぼんやり手を引かれていたのかもしれない。
夏を越えてみると、私が夏のはじめに味わった無力感は、まだまだはじまりに過ぎなかったことがわかった。それに、ホラー映画を楽しめなくなるかもだなんてまったく口先だけの話で、私はあいかわらず気軽にそれらとつきあって過ごしていた。私の目の前で、大勢の人々が理不尽な破壊と暴力に直面していた。それを眺めている私は、まだ彼らの悲鳴を、それから私自身があげているかもしれない悲鳴を聞いていないかもしれないと思った。それでも手だけは絶対に離したくないと思った。怖くてひどい物語の手を、潰れるくらい握り返したいと思った。
PR誌「ちくま」11月号より藤野可織さんのエッセイを掲載します