ちくま新書

書評『はじめてのアメリカ音楽史』

12月刊『はじめてのアメリカ音楽史』について、筑波大学教授でアメリカ外交史がご専門の松岡完先生が、 原稿用紙20枚に及ぶ熱の入った書評をご寄稿くださいました。本書の特徴はもちろん、さまざまな「リクエスト」もいただきました。 ぜひお読みください。

3 大河の流れを追って

〇融合と分離が生んだもの
 本書の中心的なメッセージは、「アメリカのルーツ・ミュージックがいかに豊かであるか」(里中氏)ということ、そして「流行のポピュラー音楽も、ルーツ・ミュージックから派生した延長線上にある」(バーダマン氏)ということである。
 本書の案内に従いながらアメリカ音楽の歩みを鳥瞰して気づくのは、現に存在する1つのジャンルがじつにさまざまな源流を有していることである。あちらこちらの山に発した水の流れは、谷を削り、勾配を変え、川幅を増し、ときに合流しあるいは支流に分かれつつ、最後は海にいたる。
 音楽もまったく変わらない。異質な、最初はまったく無関係だった要素が長い時間と人の手をかけて、たがいにねじり合い絡み合って、新たなものを生み出してゆく。
 ときには分離もある。ゴスペルが黒人ゴスペルと白人ゴスペルに分岐したように。同じカントリーでありながら、レコード会社やラジオ局が黒人の歌うものと白人の歌うものを厳しく峻別したように。
 枠をはみ出し、飛び出してしまうこともある。神を称えるはずのゴスペルから、きわめて世俗的なソウルが生まれたように。こうしたさまざまな相互作用の結果として、いまのアメリカ音楽が存在し、その活力を発揮していることがよくわかる。
 アメリカ社会における白人と黒人のように、あるいは世界各地での移民排斥に見るように、人は容易に融合できないかもしれない。差別や軋轢の克服は、口でいうほど簡単なことではない。だが音楽はしばしば融合し、化学反応を起こし、新たなものを生み出す。
 黒人の音楽を白人が演奏し、歌う。場合によっては一緒に楽しむ。その魅力はときに社会規範にさえ優先され、批判をはねのける力となる。それがまわりまわって社会を変える原動力の1つになる。たとえば白人と黒人が(アジア系でもヒスパニックでもよいが)人種を問わず戦争でともに戦い、苦しい思いをした経験(もちろん戦場でも戦後にも差別は厳然と残っている)が差別克服への道を開く。音楽はその絶好の表現舞台となってきた。「歌は白人/黒人というジャンルを選ばなかった」(バーダマン氏)のである(p.299)。
 たとえばロックンロールは、黒人のリズム&ブルーズと白人のカントリーが1つになって生まれた。チャック・ベリーをはじめ、このジャンルの創始者は黒人だった。だが彼ら黒人ミュージシャンの楽曲を好んだ白人DJが、他の白人から忌み嫌われながらも2つの音楽の合体に貢献した。そこに、バーダマン氏によれば、南部で「煮込み料理」のような「ごたまぜの音楽」を聴いて育ったエルヴィス・プレスリーが登場した。「彼のなかでブレンドされて、ひとつの声になった」ものを、プレスリーが「黒人になりきって歌い踊る」ことで、それまでアメリカ社会が苦悶していた人種の「壁を軽々と乗り越えてしまった」のである(pp.263, 266)。
 やや言い過ぎかもしれない。プレスリーが人種間の摩擦を即座に消し去ったわけではないからである。しかしながら、音楽の融合はものの考え方、感じ方の接近を呼び、和解を促す。それはアメリカに限らず、異質な分子から構成される社会における1つの共通言語になりうるのではないか。その壮大な実験の一翼を、ロックンロールというアメリカ産の音楽が担ったということだろう。

〇アメリカという存在の歩み
 2人の対話は、音楽が持つ、じつに広大な裾野も実感させてくれる。太古の昔から何層にも重なってきた地面のうえに、天変地異や長い時間をかけた土砂堆積が新たな山を創り出す。私たちがいま楽しんでいるものは、その頂上からおそらく6、7合目あたりの風景だろう。はるか下に堆積したものに触れる機会はあまりないのではないか。
 バーダマン氏は本書で、里中氏という「小舟をアメリカ音楽史という大河のなかにいざなって」くれた人物として紹介されている(p.13)。もし私たちが、曲とは歌詞とメロディだけで、あるいはそれに歌手の歌唱力や魅力などを加えるだけで生まれると思い込んでしまえば、大海原に浮かぶちっぽけな船の、そのまた船室の1つだけを見て、海そのものがわかったような気になるのと同じである。
 ある曲でも歌手でもジャンルでも、単独でこの世に存在しているわけではない。作詞家、作曲家、音楽家、歌手、聴衆などの向こうには長い、長いアメリカ音楽の歴史がある。アメリカの社会や文化を成り立たせてきた、多種多様な要素がある。無数の人々の欲求であり、情念である。
 とすれば、アメリカ音楽史を扱った本書が本当に語っているのは、アメリカの社会史であり、文化史であり、政治史であり、戦争史であり、経済史である。アメリカの音楽や歌はそのまま「アメリカという国について語られたオーラル・ヒストリー」(里中氏)だからである(p.12)。
 アメリカに限らず、およそ外国の歴史なり文化なりを本当に理解することは本当にむずかしい。とりわけその南部、そして黒人の社会や歴史となると、正直お手上げという人が多いだろう。この、わかっているようでじつはよくわからない、アメリカとりわけ南部という存在を、読者は本書によって実感することができるだろう。
 アメリカ音楽史は南部を抜きにしては語れない。にもかかわらず「南部人の心が反映されていない」「南部人の声が聞こえてこない」研究が多すぎるとバーダマン氏は嘆く。そして本書が、読者が「アメリカン・ルーツ・ミュージックの扉を開く」きっかけに、そして「アメリカ人、とくに南部に暮らす人々の心情を理解」する手がかりになって欲しいと願う(pp.298, 300)。本書の大きな原動力の1つがそれである。

〇外国文化への憧憬
 音楽を楽しむのに、理屈っぽくなりすぎる必要はない。こむずかしいことなど抜きにして、極端にいえば英語の歌詞、とりわけスラングの意味などわからなくても、メロディやリズム、曲の雰囲気を堪能することは十分可能である。
 だがどうせ聴くのなら、その曲のメッセージを理解し、その曲が生まれた背景を知ったほうがよくはないか。そしてさらに多くを知り、感じるほうが有意義ではないか。楽曲そのものだけでなく、その背景や底流に接する機会を得ることで、広くアメリカの社会や文化、歴史に興味を抱き、いっそう音楽好きになる子供も多いのではないか。政府が音頭をとり、数値目標まで掲げて留学を奨励するより、アメリカへの留学生ははるかに増えるのではないか。本書に触発されて、南部の各地で学ぶ者も増えるかもしれない。
 アメリカだけ、音楽だけの話ではない。外国の社会や文化へのあこがれを抱くこと。翻って、日本古来の伝統や文化に対する誇りを感じること。アメリカ音楽史を扱う本書が展望する地平の彼方にはそうした、とくに若い人々にもたらすべき変化があるように思われてならない。
 その意味では、アメリカ音楽の輸出入(逆輸入現象も含めて)についてもっと知りたかった。古い時代、イギリスやアフリカ大陸からの影響については何度か触れられている。だが私たちは現代のアメリカ音楽が世界に輸出され、また世界のミュージシャンがアメリカをめざしてきたことを知っている。あのビートルズも、ローリング・ストーンズももちろん例外ではない。
 こうした内と外の相互作用が、アメリカ音楽それじたいにもたらした変化はけっして小さくあるまい。ただし、本書の視点があくまでもアメリカ自身の過去と現在にあるのも事実。ないものねだりに近いこの要望は、本書のいわば第2部として、別の形で楽しませてもらうべきものと期待しておこう。

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