PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

コンヴィヴィアリティの発酵
喚起すること・3

PR誌「ちくま」4月号よりドミニク・チェンさんのエッセイを掲載します。

 すこし前に、アメリカ心理学会の会長を務め、ポジティブ心理学という分野を一般にも広めたマーティン・セリグマン博士の来日講演に参加する機会があった。人間の幸福を構成する要素を切り分け、いきいきとした心の状態を科学的に扱おうとしてきた博士の話のなかでも、次の一節が非常に印象的だった。
「私は長年、夫婦関係のカウンセラーをつとめるなかで、発見したアドバイスがある。それは、相手の話を聞くときには、相手がいままさに語ろうとしている状況をよりよく思い出せるような質問をしなさい、ということだ。」
 たとえば、夫婦でも友人でもかまわないが、話し相手が「今日はこんな良いことがあった」と切り出したとする。「へぇ、それはよかったね」と答えるのは、関係性の発展に寄与しない、とセリグマンはいう。そうではなくて、「その時に、どんな感じがした?」と聞くことで、相手は話をしながら、嬉しかったこと、楽しかったことが起きた時を、再び体験することができる。また、聞き役である自分も、相手の経験した感情を追体験できる。
 このような会話もまた、「喚起する」効能を持っているといえるだろう。その場、その時ではない現象――それは過去だけではなく、未来の事柄でもいい――を、互いに喚び起こしあえるように、会話を紡ぐこと。忙しい日々のなかでは、どうしても効率性が優先される事務的な連絡が多くなりがちだ。しかし、人間は指示と応答だけのコミュニケーションには耐えられない。逆に、ささいな会話のなかでも、感情をわけあうことを志向できる。そのことに、セリグマン博士のアドバイスを聞いて、気付かされたように思えた。
 イヴァン・イリイチは『コンヴィヴィアリティのための道具』という本のなかで、医療やインフラ、その他の近代的な工業製品が人間を所有の思考に陥れると批判した。仕事は「すること」であったのが、近代社会では「持つもの」になった。同様に、「学ぶこと」は「学歴を持つこと」、暮らすことは「家を持つこと」、こどもを育てることも「子を持つこと」になった。所有の思考は、さらなる所有へと駆り立て、結果的に人間同士のつながりも断絶されてしまう。そうではなく、親愛さ(コンヴィヴィアリティ)を深める道具をこそ造るべきだとイリイチは書いている。
 相手の内なるイメージを喚起させ、自らの内なるイメージを呼応させること。自分と相手のあいだに多様な感情がただ生起し、時間をかけて関係性が発酵するのを見守ること。あらゆるものが瞬時に情報化され、すぐさま価値を提示することが求められる現代において、喚起的な関係性から立ち現れる連帯の感覚は貴重になりつつあるように思える。その分、むしろ遅効性のコミュニケーションだけがつなぎとめられる価値があることに、わたしたちの社会はゆっくりと気づいていけるのかもしれない。
 こういうことを考えていると、倫理を意味するethosという言葉がもともと、「獣道」を意味していたという話を思い出す。通りやすい軌跡を見つけ、踏みならすように時間をかけて道をつくる。俯瞰して最適解を見つけるのではない。その時々にたちあがる不可視の関係を幻視しながら、共に育むための術を探していきたい。

PR誌「ちくま」4月号