はじめに
昨今、教科書から、和歌のしめる割合がますます減らされている。その理由はいくつかあるが、国語という教科の目的が社会性の重視におかれ、互いのコミュニケーションをはかることを目標とするようになったことが、もっとも大きな要因ではないかと考えている。和歌もまた、互いのコミュニケーションをはかる役割をもつが、その表現は、口頭による会話や、散文による文章表現とは違って、意味の伝達性をもっぱらとはしてはいない。和歌は韻律に支えられ、枕詞や序詞などの修辞的な技法が用いられるが、これらは意味の伝達とは直接にはかかわらない。教室などの場では、和歌を口語訳することが一つの目標とされることが多いが、和歌の表現には、その口語訳からこぼれ落ちるところが必ず残る。しかも厄介なのは、そうしてこぼれ落ちてしまったところに、和歌の表現の本質が存在することである。その本質を、教室の場でいかにきちんと教えるかが、いちばん大切にされるべきことだろう。ところが、先生方にお話をうかがうと、和歌の表現について、きちんと学んだ経験がないと仰る方がずいぶんとおられる。これでは、なかなか、和歌の魅力を生徒たちに伝えるのは難しい。
そこで、この連載では、和歌の表現の本質に触れながら、和歌のおもしろさについて、述べてみたいと考えている。対象は、私の専門領域にもっとも近い『万葉集』の歌を取り上げるが、それはまた『万葉集』にこそ和歌の表現の本質がもっとも明瞭に現れていると思われるからである。
全体のタイトルは、「万葉樵話」とした。万葉の森に分け入って、その木を伐る意を含ませたつもりである。
なお、今回だが、いきなり番外篇のような恰好になるが、新たな元号に選ばれた「令和」をめぐるあれこれについて、まずは述べてみたい。