神の言葉としての和歌
今回は、第一回の「はじめに」で述べたことについて考えてみたい。それは、和歌の表現の本質がどこにあるかという問題である。
その前提として述べておきたいのは、和歌が日常の言葉とは異なる表現としてあったということである。和歌は韻律をもち、枕詞や序詞のような修辞技法(この言い方が不適切であることは後に述べる)が用いられる。長歌では、対句(繰り返し表現)がしばしば見られる。和歌にしか使われない特別な言い回しや言葉(歌語)があったりもする。こうした表現は、日常の言葉には現れない。反対からいえば、和歌はこうした表現をもつことで、日常の言葉ではないことを表示させているともいえる。
それでは、和歌はなぜ日常の言葉とは異なる表現をもつのか。それは、もともと和歌が人の言葉ではなかったからである。和歌の起源は、祭式の場の神の言葉にあった。神の言葉は、人の言葉と同じであってはならない。神の言葉としての徴表、それが韻律あるいは枕詞や序詞などだった。
言葉には不思議な力が宿るとする信仰があった。それはしばしば言霊とも呼ばれる。言霊は、一般にはコト(言)とコト(事)との同一性の現れとして理解されている。口に出して言い立てた言葉は、そのまま事実として立ち現れるとする言葉の不思議な働きが、言霊として意識された。言葉は外界の事象を対象化し、それを抽象化することができる。コト(言)とコト(事)との同一性は、言葉のそうした機能にもとづいている。
しかし、言霊は、すべての言葉の中に働くわけではない。日常会話にまでその作用が及んだら、私たちの生活はたちまち混乱を生じてしまう。そこで、言霊が宿るのは、非日常の言葉、神に起源をもつ言葉に限られることになる。託宣や神への祈願の詞章などが、祭式の場に現れる特別な言葉になる。
和歌もまた、そうした神の言葉に起源をもつから、そこにも言霊が宿る。和歌には和歌独自の不思議な力があると信じられたのは、そのためである。和歌――ここでは一般化して歌と呼ぶが、歌には対象に働きかける力があるとされた。「訴へ」を「歌」の語源とする説がかつてはあった。「ウツ(ッ)タヘ」の古形が「ウルタヘ」であるところから、現在では旗色の悪い説とされるが(「ウルタヘ」は「ウタ」には転じにくい)、語源としては成り立たなくても、「訴へ」説は対象に働きかける力が歌にあることをよく示しているのではないかと思う。
現代の私たちは、和歌(短歌)を、自己の思い(自己の内面)を外部に向けて表出する自己表現の手段の一つと考えるが、もともと和歌は、歌い掛ける対象(相手)をもち、その対象に作用を及ぼすような表現としてあった。古代の和歌には、純粋な独詠歌(自分一人の心やりのために詠まれる歌)は存在しない。対他性(人が対象であれば対人性)こそが歌の本質であった。土地讃めの歌は地霊(それぞれの土地に宿る霊、国魂)への直接的な讃美だし、死者に向けて歌われる挽歌が死者の霊を鎮める役割をもっていたことからも、そのことは明らかだろう。
そこで、和歌の韻律あるいは枕詞や序詞などが、神の言葉としての徴表であったとするところに話を戻す。以下、枕詞と序詞に焦点を合わせて説明することにしたい。
なお、和歌の表現を考える場合、その前段階の表現である歌謡(そこにも短歌謡と長歌謡の別がある)、また和歌の場合も、短歌、長歌、旋頭歌等の歌形の違いについて触れる必要があるのだが、ここでは短歌を中心に考えていく。その点、御容赦願いたい。