防人歌が収集された理由
それでは防人歌はどうか。防人歌とは、対馬・壱岐など九州辺境防備のため東国諸国から徴発された防人やその妻たちの歌を指す。防人は一般農民だけでなく、その上層部には国造一族など地方豪族層もいた。防人歌は、東歌中にも数首見られるが、一般には巻二十所収の八十四首を指す。天平勝宝七(755)年、諸国の部領使(防人引率の国庁の役人)が進上した歌を、当時兵部少輔(兵部省の次席次官)であった大伴家持が取捨して採録したものである。家持は、防人交替業務の責任者だった。
防人歌も、東歌と同様、一首の長歌を除き、そのすべてが完全な短歌形式であり、一字一音の仮名書きによる統一した書式をもつ。家持に進上されるまでの段階で、幾人かの官人の手が加わっている可能性が相当に高い。さらに、家持による取捨(「拙劣歌」を除いたとある)によって、より洗練された歌ばかりが残されたともいえる。
もとより、防人歌もまた東国の衆庶の声を伝える歌であることは間違いない。東歌に残された数首の例からも、防人たちが、出立に際して、あるいは旅の途中で歌を詠むような慣行があったらしいこともうかがえる。とはいえ、家持によって防人歌がまとめて採録されたのには、特別な事情があったことを見ておかなければならない。
その事情とは、防人制度の動揺をいう。そもそも東国から防人を徴発して、遠く離れた西辺の防備にあてることには相当の無理がある。そうせざるを得なかった政治的な事情もあるのだが、それについては省略する。ところが、この時期、そうした無理の積み重ねもあって、天平二(730)年以降、防人制度に動揺が生じてくる。東国からの防人徴発を停止したり、それを復活したりという動きが繰り返される。とりわけ、家持が防人歌を採録した天平勝宝七(755)年は、動揺のただ中に位置する重要な時期だった。
兵部少輔として防人交替業務を担当する家持にとって、防人制度の今後を考えることは、いわば差し迫った課題でもあった。そこで家持は、その課題に応えるための資料として、防人歌の組織的な進上を、防人を派遣するすべての国の部領使に求めたのだろう。家持がいかにすぐれた歌人であっても、個人的な関心からこれだけ多数の防人歌を集めることはできなかったはずである。防人歌は、防人たちの赤裸々な心情を伝える貴重な記録として、防人制度検討のための資料とされたに違いない。当時、兵部省の長官は橘奈良麻呂であり、奈良麻呂の父は左大臣諸兄だから、諸兄から奈良麻呂を通じて、家持に防人歌収集の命が下った可能性もある。
ならば、防人歌も、東歌とは違った理由からではあるものの、王権のありかたを補完する役割をもつ歌であったことになる。このような防人歌のありかたは、宮廷歌集の論理とも矛盾しない。
いずれにせよ、『万葉集』を、天皇から庶民までを作者とする「国民歌集」とする見方は、右に述べたことからも、あきらかに誤っているといわざるを得ない。
(「第三回」につづく)