ちくまプリマー新書

国家を考えてみよう

国立競技場のもの

「国家を考える」と言っても、それはそう簡単に出来るわけではありません。その理由ならもうお分かりのことかとは思いますが、「国家」の二文字だけで、もう十分にめんどくさい意味がこめられているのです。

 漢字の「国(國)」には「領土=国家」のstate の意味しかなくて、「国民=国家」であるnation の意味がありません。「国」に「家」がついて「国家」になると、もう「国民のもの」ではなくて、「誰かえらい人のもの」になって、だからこそその「えらい人」を「支配者」と言ったりするのです。

「今ではそうじゃない」と分かってはいても、「国家」という言葉を頭に思い浮かべると、なんだか「重い」という感じがして、古い亡霊のようなものがちらついているような気もして、あまりピントが合わず、「なんだかよく分からない」という気になってしまうのではないでしょうか?

 でも、はっきりさせておきたいのは、今の時代に「国家」というものは「誰かえらい人のもの」ではなくて、「国民のもの」なのです。それが世界的な常識なのです。「国連」=国際連合は、英語で言うと「UN――United Nations」で、「結びついた(国民の)国家達」です。国際連合の前にあった一九二〇年に出来た「国際連盟」だって、「League of Nations ――(国民の)国家達の同盟」です。だから、ナチスドイツや大日本帝国が国際連盟から脱退してしまったというのは、「我が国家は国民の国家なんかではない!」ということだったのかもしれません。

 二十世紀になって、「国家」は「国家=国民」のnation になっていて、「国家は国民のもの」という国民国家なのです。現在そうじゃないのは、国連に加盟していないし、加盟する気があるのかどうかも分からない、Islamic State の「イスラム国」だけでしょう。

 日本でだって、国立競技場や国立博物館や国立劇場のたぐいは、みんな「国民の国家の――」です。「国家」がnation だからnational で、それは「国民の国家の」ですが、だからといって、国立競技場をすぐに、「国民みんなの競技場」とは思えないでしょう。

「選ばれたアスリートなら〝みんなの競技場〞とか〝自分達の競技場〞と思えるかもしれないけど、こっちは普通の人間だし、えらい人達がなんだかゴタゴタやってたから、あんまり〝みんなの競技場〞という気はしないな」と思う人が多くて、「国立競技場なんだから、オリンピック用に建て直す時のプランの最終決定は、国民投票にすべきだ」なんてことを言う人は、あまりいなかったようにも思います。

「国立」と付く建造物の多くは、大層な金をかけて造られた巨大なもので、「国のものであるのがふさわしいように立派で、国威発揚になるように」というような人達によって造られてしまうので、「国というのは巨大なものなんだなァ」という気がするだけです。でも、これは本当は、「みんなが力を合わせるとすごいものが造れるんだなァ」であるべきなんですが、国民一人一人は、自分のことをそんなに「たいしたもの」だとは思っていないので、「国立」と名の付くすごい建物を見ても、「ここら辺は自分の貢献で出来るんだよな」とはまず思いません。募金によって出来上がったものだと、「みんなが力を合わせて」とは言えるのにね。

「国家」はnation だから、「国民のもの」で「みんなのもの」です。そう言われりゃ「そうなんだろうな」と分かるはずなのに、でも、どこかでよく分からない 。だから、「国家は国民のもので、自分はまぎれもなく〝国民〞だから、国家は私のものだ。なんで私の意見が通らないんだ!」というような、とんでもない考え方をする人だって出て来てしまいます。

 なぜそんな考え方が生まれてしまうのかと言えば、それは「みんなの――」という考え方がよく分かっていないからで、どうしてよく分からないのかと言えば、「国家」というものが「誰かえらい人のもの」だという、「国家= state」系の考え方がまだ残っていて、うっかりすると、「国家は誰かのもので、自分がその〝誰か〞であってもいいはずだ」というところへ行ってしまうのです。

「そんな考え方をするやつは中二病だ」と言われるかもしれませんが、そんな考え方に人がわりかし簡単にはまってしまうのは、「国家は国民のものではない 」という時代がとても長かったからです。

「国家」という言葉や漢字をそのままに使うのは仕方のないことではありますが、そうであっても、「国家は国民のもの」ということだけははっきりさせておかなければなりません。そうであるためにも、「国家が国民のものになった経緯」というものを、ちゃんと知っておく必要はあるのです。

(第三章 「国民の国家」は簡単に生まれない――冒頭より)

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