筑摩選書

世界標準のアジール論へ

多くの論者を魅惑してきた「アジール」。その歴史上の実態をとらえるのは簡単なことではありません。しかし、もしそれを探っていくことが出来るとしたら、最も有益な材料を提供するのは日本中世史だろう、と著者は説きます。筑摩選書『アジールと国家』より、「序章」の一部を公開します。

魅惑のアジール

 アジールは人々を魅了してきた。網野善彦『増補 無縁・公界・楽』(平凡社選書、一九八七年、初版『無縁・公界・楽』一九七八年)は、原始以来、人々の生活の中に脈々と生きつづけ、権力や武力と異質な自由と平和「無縁・公界・楽」、アジール的な世界を叙事詩さながらに描いた。現代人はどこかにこんな世界への憧憬を持っている。またこういう場が現代社会にもどこかにあると信じたい。この書は、おのおのの読者が、おのおののイメージを、自己の姿を投影しながら、自由に、奔放に広げる手がかりを与えてくれた。そのためこの書は中世史の枠を越える大きなブームとなった。もちろんこういう大きな構想には逸脱が付き物である。それはしかたのないことだろう。

 『アジール─その歴史と諸形態』

アテネのキュロン派の人々は、アジールから出るときに神像に糸を結びつけておく。そうしている限り、彼らは危害を加えられない。(プルタルコス『英雄伝』(1)京都大学学術出版会)

「しかし、神殿内では、誰もが武器を持っていなかった。なぜなら、そこでは神殿の聖性が支配していたからである。」(『エギルのサガ』第四九章)

「神殿に武器を持ちこむことは、しきたりに反することである。あなたは神々の怒りに身を曝すことになるであろう。それは耐え難いものである。」

 オルトヴィン・ヘンスラー著『アジール―その歴史と諸形態』(国書刊行会、二〇一〇年、舟木徹男氏訳・解題)の一節である。アジール世界を象徴的に示し、読者の想像力をかき立てる魅力にあふれ、圧倒的な説得力をもって迫ってくる。
 すでに戦前に平泉澄によって、西欧アジールが紹介されている。『中世に於ける社寺と社会との関係』(一九二六年、至文堂)であるが、これはヘンスラー以前の法学者やロマニストの研究が未整理のまま紹介されているだけであり、古典と見なすことはできない。
 この書はドイツで一九五四年に出版されていた。これが邦訳出版されたことの意義は非常に大きい。日本のアジール研究は、阿部謹也の研究を除き、これとは独立に、悪く言えば研究者各人の恣意的関心にもとづいて進められてきた。必読の古典が長く邦訳されなかったことは、日本における研究を大いに遅らせたと思われる。この書の出版が今後の研究に大きく資することは論を待たない。なお舟木氏の解題も理解の助けになる。
 アジール論は主として西欧中世をモデルとして組み立てられてきた。最初に強調しておきたいのは、その像が必ずしも確かな証拠から導出されたものでないということである。素材はエッダ・サガ・神話・旧約聖書などで、歴史学の立場からは到底依拠できないものばかりである。『ゲルマーニア』などの歴史書も、同時・同所性を満たすものではない。そこに書かれた観念が同時代のものである証拠はどこにもない。そしてそれらに脚色が施されていることも当然考慮すべきである。中世後期の都市法は証拠たりうるが、中世前期、一三世紀のザクセンシュピーゲルなどは、慣習法を文字化したものであり、詩的な表現も多く一次史料ではない。
 以上の資料は象徴的な記述が多いけれども、実際にあった歴史上の事件がほとんど挙げられておらず、事実の裏付けに乏しい。……いつ、どこで、誰が、どのような事件に直面したのか、それがアジールの存在によって、どのように現代の常識と異なる帰結を迎えたのか……歴史家が知りたいのはそういう実例である。時間・場所・人間は、実在したものでなければならない。
 実体は必ずしも理念とぴったり合ったものでなければならないわけではない。また実体を通して得られた知見は、理念とのギャップが必ずあるものと思わなければならない。一方、理念は現実をより容易に説明できるものでなければならない。
 網野は「(西欧アジールは)日本のように、多様で、錯雑とした形はとっていない」と述べる。阿部はアジール研究が「わが国の日本中世史研究の進展によって格段に豊かにされつつある」という。より明瞭な日本の事例……そもそも歴史事象は多様で錯雑としている……から、アジール像を抽出する作業こそがむしろ必要なのではないか。否、従来のアジール論の根拠が不確かであるとすれば、日本史の史実からアジール論を構築するのが本筋ではないか。

日本史の可能性

 アジールは人類一般に存在する。これだけ多くの国々、交流のない地域で共通する観念が見いだせるから、神話・伝説の伝播などで説明することはできない。背景に人類共通の何かがあると考えざるをえない。その何かを、神話・伝説でなく、より確かなもので跡づける方法はないか。これは当然おこってくる興味である。依拠できる一次史料の文書・日記、また考古資料が豊富にある地域はないだろうか。
 一六世紀以前について言えば、古文書学の国際会議などを経て比較検討が進んだ結果、一次史料、文書・日記の残存数は、日本が世界一多いことが明らかになった。比類がないほどに飛び抜けて多い。西欧や中国より多いのである。従来の歴史書はこの常識についての指摘が不十分であり、読者に対して大変不親切なものになっている。
 実は一五世紀までの西洋史・中国史は、後に記された史書・年代記、そうした二次史料による記述が多く、一次史料による叙述はごく少ない。日本でも『日本書紀』『続日本紀』を始めとする六国史や『吾妻鏡』『徳川実紀』などは、同時代史料ではなく、多くは後世に政府によって編纂された歴史書(正史)なので、同時代史料より価値が落ちる二次史料である。だからこれらは残存数に含められていない。西洋の歴史より、日本史のほうが詳しくわかるのである。
 ヴァンデホルストによれば、ヨーロッパ中世の識字率は低く、メロヴィング朝からカロリング朝にかけての支配者の大多数は文盲であり、王でさえも読み書きができない人物が多く、聖職者にも一四世紀中葉まで書く能力はほとんどなく、騎士層に至っては中世以後も読み書きの能力は評価されず、いわゆる騎士文学と称するものも多く文字と関わらぬものであり、その作者の多くも後代においてすら読み書きができなかったという。
 史料が多いということは決定的に有利である。たとえば気候変動史研究のうえで日本の史料は重要な意義を持っている。貴族は毎日の日記の冒頭にその日の天気のことを書くのが普通である。また水害・地震などの記事を詳しく記す。平安時代以後、皇族・貴族の日記は連綿と続いている。こんな国は世界のどこにもない。日本の気候の変化を追跡できるだけでなく、世界規模の気候変動を追究するうえでも、日本の日記は極めて有益である。
 また歴史時代の考古学の水準も世界一といってよいものがある。このような多くのデータを背景に、地についたアジール論の構築を試みる意味は十分にある。日本の歴史事象こそが最も大きな寄与をなしうると思われる。ほかならぬ日本史から世界標準のアジール像を構築しようとする試みは無謀ではないだろう。
 日本に一次史料が多く残った理由として、官人が文書を自邸に持ち帰って仕事をしたため、その家が残った場合に文書も残ったからと言われる。外国では戦争などにより公文書の保管施設や図書館が滅びたときに、すべて消失した。日本でも、鎌倉・室町幕府そのものが保管していた文書は焼失・散逸して皆無である。鎌倉幕府文書は北条氏の庶流金沢氏の金沢称名寺にわずかに残っているだけである。
 もちろんそれだけではない。残存文書数は寺社文書が圧倒的に多い。寺社では火災などに際して文書を避難させるため命がけの努力がなされた。また寺社がアジールとして戦火を免れたことも大きな理由である。
 こうした多数のデータの存在に加えて、日本は外国からの適当な距離がある。第二次大戦までは征服されたこともない。頻繁に国境が揺れ動く西欧などに比べて、小世界として取り出して観察するには有利である。試験管の中を観察するようにはいかないが、日本史は世界史のケーススタディのよきサンプルとなる可能性が高い。このことはアジール論だけでなく歴史学の諸分野についても言えるだろう。
 ただし問題もある。西欧・北欧の資料には明文の直截なアジール法が象徴的・詩的に書かれている。日本の中世法には、それらにあるような明文のアジール法が少ない。根本である基本法そのものは成文化されないことが多い。基本法は当然の前提として法の条文に記されず、施行細則のみが記されるのが普通である。同様のことは『御成敗式目』以下の幕府法についても指摘されている。アジール法についてのみならず、古い時代の法制史研究に常につきまとう困難である。

本書の試み

 私が今まで取り組んできた寺社勢力論はすべて具体的事件を取り扱っている。当然ながら現象は錯雑としている。アジール的現象について、政治史・経済史上の無数の実例を挙げることができるけれども、そこから新しい理論を抽出することは容易なことではない。
 今までの著書を執筆しているとき、寺社勢力にアジール的性格を見いだしながら、この言葉の使用を避け「無縁所」の語を使ってきた理由は、巨大な経済核である寺社勢力が権力や武力と無縁とは言えず、平和秩序の追求を目的とするアジールとするには、あまりにも多くの不純物を多く含んでいると感じたためである。しかし理念と実体の不整合はある意味で当然のことである。無数の実例があるのに、不純物が多いから(当然のことである)と言って、捨て去ってしまうのは惜しい。
 本書は従来の日本の歴史事象の見方を、アジール論から再解釈することを第一の目的とする。逆に歴史学から従来のアジール論を修正し、あるいは精密化することが、次の目的となる。なお筆者の著作がアジール論として取り上げられる機会が多いことを考慮して、今まで使ってきた「無縁所」の語は、史料に明記されているものを除いて、「アジール」に置き換えることとする。この語句の変更によって、今までの著書の論旨が変化をきたすことは基本的にない。
 なお本書はヘンスラーの関心に寄り添いつつ、実利主義的段階(アジールの諸段階については後述)のアジールに論をしぼる。これをアジールの典型と見るからである。後述のように様々なアジール法がその姿を現すからである。最初にヘンスラーの学説と日本史の事実との対比を行いたい。もっとも筆者は日本中世寺社勢力論を専攻しているだけなので、題材はその分野を大きく出るものではない。また本書は最初の作業であるから、ヘンスラーの問題関心の範囲を一歩出るのが精一杯であろう。

マクロ‐アジール論

 本書では従来のアジール論でよく言及される遊行民、境界領域、山林・街道・宿駅・墓所、商人・職人などにあまり触れない。アジールと最も対立する存在は国家であるから、国家制度に関わるテーマを優先的に取り上げる。必然的に政治・経済の問題に触れることになる。いわばマクロのアジール論である。従来の研究は今列挙したような素材を扱うミクロ‐アジール論が多かったと思われる。

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