「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち

5月4日、厚生労働省が新型コロナウィルスを想定した「新しい生活様式」を公表しました。感染対策のために、「手洗いや消毒」「咳エチケットの徹底」といった対策を日常生活に取り入れることだけでなく、会話や食事、働き方など様々な領域における行動について指針を示しています。
この「新しい生活様式」という言葉から、戦時下に提唱された「新生活体制」を想起するという大塚英志さんに、エッセイを寄せていただきました。

†女文字が隠蔽するもの

 翼賛会宣伝部員としての花森は、戦時下、国家広告の理論化と実践を行った集団「報道技術研究会」と互いに接近、「おねがひです。隊長殿、あの旗を射たせて下さいッ!」のコピーで知られるポスターを始め、男文字のプロパガンダを牽引してもいく。
 その時、厄介なのは「戦争」という前提、国家プロパガンダという文脈をとり除いたとき、男文字の仕事はあからさまな戦争協力に見える一方、女文字の仕事はまるでそんなものは感じさせず、むしろ凜として節度を持った生活の主張のように思える点だ。
 そういう例は他にもある。戦時下、もう一つの思想統制としてあったのが、科学戦遂行のための「科学」的啓蒙の徹底である。その旗印の許につくられた、旭太郎(マルクス主義詩人・小熊秀雄のいかにもの筆名)が原作の「科学」をモチーフとする子供向けまんがや、村山知義の科学絵本から少しも戦時色を感じないのと同じだ。しかしそれは彼らが転向をしなかったからではなく、こういう種類の「転向」があっただけの話で、それは中野重治の『空想家とシナリオ』の中で、仕事を干された左翼作家が「文科映画」(国策啓蒙科学映画)のシナリオを描く姿に書き留められているではないか。
 花森の女文字の仕事も同様である。戦時下につくられたことばや書物で戦時色、軍国色が感じられない作品は実は少なくないが、多くはつくり手の抵抗の証しでなく、別の国策に従順であった証拠なのである。
 この花森の生活雑誌群が、その題名に平仮名を多用していることも注意していい。いささか皮肉めいた言い方になるが、「ていねいな暮らし」系のライターが好んで用いる生活をめぐる平仮名の単語が並んでいるのである。平仮名を女文字と言うとあまりに直球だが、そういう女文字の「くらし」を花森は翼賛下につくったのである。

†隣組長、村岡花子のことば

 近衛新体制下、新体制をめぐって男性たちのイデオロギーに溢れた男文字の書物が大量に刊行され、思いつめた左翼青年の中には、ぼくの本来の専門のまんが関係に限っても加藤悦郎や阪本牙城のように、勢い余って工場労働者や開拓民の「生活」や「実践」に身を投じてしまう者がいた。しかし、それは例えば以下のような『赤毛のアン』翻訳者の村岡花子のエッセイと比すと対象的だ。

 子供も大人も一緒になつて宣傳のための實踐をするのは感心しないが、眞實の意味に於ての日常生活をとほしての職域奉公の實踐を私は自分の隣組の目標として行きたい。
(村岡花子「隣組ノート」、大政翼賛會宣傳部編『随筆集 私の隣組』)

 村岡が批判する「宣傳のための實踐」とは勇ましい男文字の新体制運動を指す。それに対し村岡は、良くも悪くも(いや、本当はかなり「悪い」のだが)「日常生活」での実践をこそ翼賛運動の本質と理解している。
 実は、この一文は大政翼賛会の下部組織としてつくられた隣組の「組長」として活動した経験を翼賛会のパンフレットに寄せたものだ。隣組というとこれも大きな誤解があり、「隣組」の歌の牧歌的にも聞こえる曲調や、江戸期の五人組に端を発するという伝統的起源論の流布で、古き良き近隣社会の象徴のように錯誤されさえするが、実際には、ナチスドイツの下部組織であるブロックを模したものだ。一方では中国大陸や台湾など「外地」への隣組組織の拡大を想定し、隣組は古代中国起源とも説かれていた。戦時下刊行された一般向けの隣組マニュアルの類に堂々とそう書いてあるのだから仕方ない。
 そもそも、隣組がまず組織されていったのは近代以前、郊外へ郊外へと拡大していった都市近郊に於いてである。希薄化した社会関係の再構築が目的だとも当時、語られた。郊外の新興住宅地に江戸時代の近隣組織の残存などないことは考えればわかるものだ。
 隣組とは、つまりは「新体制生活」を実践することでつくられる、人工的な「日常」の立ち上がる場であった。
 だから注意していいのは、このような「隣組」を語るときに積極的に動員されたのが「日常」の語り手であった、ということだ。しかも、村岡花子を腐すわけでもないが、どこか浮世離れした日常の描き手である。

†『詩集組長詩篇』の男文字と女文字

 村岡が隣組エッセイを寄せたのは、すでに触れたように『随筆集 私の隣組』である。執筆者はいずれも隣組組長として行動した著名人であるがその顔ぶれは壮絶である。男性陣は、日本における原爆開発に関わった仁科芳雄、玉音放送に奔走することになる下村海南(宏)、航空エンジン研究の第一人者であった富塚清、登山家であるが寄稿文や郷土研究で知られる冠松次郎と並ぶ。そこに唯一の女性で村岡花子が加わる。一見脈絡がないように思えるが、この人選は国策にあまりに忠実である。一方では「科学」の最先端にいる者、他方では「日常」や「生活」の描き手と、綺麗に二つに分かれるではないか。下村は、実は歌人としてもよく知られる。
 岡本一平は、あの「隣組」の歌の作詞者でもあるまんが家である。まんが領域における隣組プロパガンダは、途中から新日本漫画家協会の「翼賛一家」にとって替わられるが、当初は岡本を軸に展開しかけていた。岡本は花森の生活雑誌にも男性の着物についてのエッセイを寄稿している。ここからも生活を描くことに長けたまんが家が必要とされたのだとわかる。
 その中で、尾崎喜八の名は、あるいはあまり今は馴染みがないかもしれない。ベートーヴェン「歓喜の歌」の翻訳で知られるが、白樺派に近い詩人である。
 尾崎の「隣組」論は凡庸だが、屋外での常会(隣組の集会)を実践したくだりだけは、興味深い。

つまり組内の何處かへ集まつて空の下でやる常會である。之は私が或時狹山ヶ丘の或部落を通り掛つた時目撃した光景を取つて用ひたもので、ちやうど到る處で柿の實の美しく輝く秋だつたが、村のおかみさん達が山畑の畦ふちへ腰をかけて晝間の常會をやつてゐた。農家の裏庭に白や桃色や薄紫の蝦夷菊が咲き、白い雲のぽつつり浮んだ秋空の下を無數の赤蜻蛉が飛んでゐた。
 その光景がいかにも私の心を打つた。田園の野外常會、古くして新らしい日本の牧歌。それを取入れたのが私達の屋外常會である。
(尾崎喜八「私の隣組」、大政翼賛會宣傳部編『随筆集 私の隣組』)

「新しい村」ではないがどこか白樺派の理想化された生活共同体への憧憬を強引に隣組に重ねている感じもする。
 その尾崎は『詩集組長詩篇』なる奇妙な詩集を残している。大政翼賛会宣伝部の刊行である。
 宣伝部からは、A6判中綴じで60〜70ページ程度の冊子が宣伝用ツールとして大量に刊行されている。多くが中扉に隣組での「回覧」を求める但し書きが載り、その内容の多くは新体制啓蒙のマニュアルや、プロパガンダ用の簡易なツールで、創作では人形劇や演劇など隣組が「厚生」(国民参加の協同的娯楽)として上演するための脚本はあるものの、詩集は珍しい。
 この詩集が『組長詩篇』と奇怪な題を冠しているのは、「戦時下隣組長としての私によってかかれ」たからである。詩人の第一義的なアイデンティティが「隣組組長」であるのは笑うに笑えない。なんのひねりもない。
 しかし、この尾崎の詩集が、興味深いのは男文字と女文字の二重構造になっていることだ。その点で花森に近い。

ハワイ海戰、マレー沖海戰、
あの赫々の大戰果にも慘として驕らず、
我が海軍將兵は唇をかみ眦を決して
あすの作戰に從事してゐると人は言つた。
その言葉を幾たびか心に繰返しながら、
私はただ一人燈火管制下の我町を視てまはる。
(尾崎喜八「新なる暦」『詩集組長詩篇』)

芋なり。
配給の薩摩芋なり。
その形紡錘に似て
皮の色紅なるを紅赤とし、
形やや短くして
紅の色ほのぼのたるを鹿兒島とす。
(「此の糧」同)

 前者は日米開戦の直後の緊迫した様子、後者は配給の芋の細部を歌う。元々尾崎の詩は山岳や自然に過度に憧れる、いささか地に足のつかないものが少なくないが、戦時下にあって此の詩人は「生活」を実に丁寧に歌うのだ。
 家庭菜園を歌ったものもある。

さざんくわの花 地にこぼれ、
笹鳴のこゑ 路にあり。
うすむらさきの初霜に
うたれて結ぶ白菜の、
はつはつあまき味をおもふ。
(「隣組菜園」同)

 その尾崎は、「けふの詩人はもう昔の詩人ではゐられない」「公の福祉を先立たしめなくてはならない」(「窓前臨書」同)と自分に言い聞かせる。「公の福祉」とは戦時協力のことだが、一体、「公の福祉」が詩のことばになるとは、と彼を憐憫さえしたくなる。