「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち

「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち

5月4日、厚生労働省が新型コロナウィルスを想定した「新しい生活様式」を公表しました。感染対策のために、「手洗いや消毒」「咳エチケットの徹底」といった対策を日常生活に取り入れることだけでなく、会話や食事、働き方など様々な領域における行動について指針を示しています。
この「新しい生活様式」という言葉から、戦時下に提唱された「新生活体制」を想起するという大塚英志さんに、エッセイを寄せていただきました。

†ていねいな暮らしに取り込まれていくということ

 こういった詩人の「日常」や「生活」は、最初から地に足がついていたわけではない。
 戦時下の日常作りに駆り出された作家の中には村岡花子のように少女文化の担い手も少なからずいた。宝塚が「隣組」をモチーフにした歌劇を上演した記録も残っている。
 もはや忘れられたと言っていい、少女小説家・城夏子なども戦時下の日常を描いた者の一人だ。女学校時代にデビューし、平塚らいてうらの『婦人戦線』にも接近するが、戦時下の著作に『歡びの書』がある。これは日本開戦から半年後に刊行され、その時点での女性たちの日常が描かれる。そこには服や食についての彼女の「好み」についての記述が溢れる。

 もう一つほしいふだん着は、昔の地のいゝめりんすである。ほんとに毛織ものといふ感じのする柔らかな手ざはり。そして、その模様と色。紫地に白く優雅な花模様を染め拔いたのや、白地に秋草を細い線で、色々な色どりで散らしたものなど、何かふらんすと日本とのあいのこみたいな、リヽシズムを持つてゐたものだ。
 初夏のフランネルと共に、私の大好きなものの一つであつた。
 今は、ハイカラなフランネルも着られないし、めりんすなんかふりむいてもみたくない程、いやなのばかり。
(城夏子『歡びの書』)

 このまま「ていねいな暮らし」エッセイとしてwebサイトに載っていても誰も気がつかないだろう。尾崎と同様に城もまた、食べ物や布といった、手仕事の産物を実に丁寧に描写する。
 だがこのような一種の生活上の「確かさ」を彼女にもたらしたものは何なのか。
 同書には「翼賛一家の笮螺さん」という一文が掲載されている。「笮螺」は「さくら」と読み、翼賛会プロパガンダまんが「翼賛一家」の長女と同じ名の「東京の一隅に愉しく生活しているお嬢さん」についてのエッセイである。
 彼女は、宝塚出身の葦原那子や小夜福子に入れあげ、ファッションを真似、手芸で宝塚スタアの人形をつくる日々を送っていた。しかし、日中戦争が始まり、彼女の手芸は「兵隊さん」用の慰問人形の「献納」へと変わり、女優への憧れに替わって、海軍兵士の話を同じ口調で熱心にするようになった。そして、日米開戦後の今は自宅に隣組の「娘さん」を集め手芸や習字を教え、病弱な姉に替わって家事を切り盛りし、鳥たちに与える餌をつくる。そのように、戦時下という環境が、彼女に「くらし」や「生活」の具体相を与えていく様が描かれるのである。
 この地に足のつかぬ都会の少女なり女性たちが、新体制下、豹変していく様は、城が描き留めた例に留まらない。ぼくは、城の文体から太宰治の「女生徒」を連想する。そこではいうまでもなく、一人称の「私」のふわふわと漂う自意識が冗舌に語られる。それは現在形としても読み得る、自我のあり方だ。
 しかし注意して読むと、それは、ファシズムを待つ小説であることもぼくはくり返し書いてきた。またくり返すのは気が引けるが、やはり以下のくだりを引用せざるを得ない。これも考えてみれば、男による女文字だ。太宰の危うさもそこにある。

 それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威を以て指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。(中略)こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。
(太宰治「女生徒」)

 ぼくはこの十年近く、ずっと今はファシズムを待つ戦時下だと語っては失笑されてきた。しかし、この世界が待っていたのは此のような「強い力」であったことは、やっと実感してもらえるだろう。
 言うまでもなく「女生徒」は日中戦争開戦後の1939年に書かれ、同名の単行本に収録されるが、1942年、つまり日米開戦の翌年、短編集『女性』に再録される。ぼくはこの短編集が「女生徒」の読まれる文脈を正確に示しているとずっと言ってきた。そこには「十二月八日」と題された短編が収録される。それが女生徒ではなく主婦のモノローグとして語られ、日米開戦当時の「わたし」の変容がこう描写される。

 きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。
(太宰治「十二月八日」、太字筆者)

 ふわふわと地に足のつかない「わたし」が着地したのはどこであったかは明らかである。そこで主婦となった「わたし」は「昭和十六年の十二月八日」の「生活」を「ていねいに」書こうと決意するのだ。「ていねいな暮らし」の「ていねい」がここから始まったと強弁する気はないが、彼女が新体制下に「ていねいな」「生活」を発見した事だけは確かである。その彼女たちが担う「新体制生活」のフィクサーの一人が、女文字の花森安治であったのは既に見た。
 その花森と「報研」は日米開戦の一周年に向けて「十二月八日」という特別な日付をフォントとして表現しようと試みている。一体、日付をレタリングによって特権化しようというのは何と無謀で傲慢な試みなのか。しかしそれは「日常」が更新された日付として歴史に収録されるべきだと戦時下、女文字で語り続けた太宰治が描き残したことと正確に呼応する(図8)。

図8 「十二月八日」フォント。報道技術研究会「宣伝字体制作報告」『宣伝』昭和17年12月号

 花森が戦後『暮しの手帖』を創刊したことはよく知られるが、「報研」のメンバーたちはマガジンハウスをつくり、あるいはコピーライターやアートディレクターとして電通を始めとする広告代理店や広告制作の現場で戦後の生活を設計していく。雑誌や広告の歴史ではよく知られた事実だ。そういうものの果てにぼくたちのこの「生活」や「日常」があり、だからこそ、ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。

 だから、この「日常」がいかにして出来上がったのか、その歴史というものが、もう一度、書かれなくてはいけない、と強く思う。

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