ちくま新書

プロの患者としてプロの診察医の本を読んでみた

國松淳和『医者は患者の何をみているか―プロ診断医の思考』では、病名より診断よりも大切なのが治療、症状が起きている仕組みやメカニズムが推定できれば治療はできる!とある。プロ診断医の思考を覗き込んだプロ患者の頭木弘樹氏による解説。

 『刑事コロンボ』の「殺人処方箋」に、コロンボのこういうセリフがある。
「それでも、あたしたちはプロですからね。たとえば今の犯人にしてもです、頭は良いが、素人ですからね。いっぺんこっきりしか経験してないわけです。ところが、あたしらにとって殺しってやつは、仕事でしてね。年に百回は経験してます。ねえ先生、こりゃ大した修練です」
 患者と医者の関係にも、こういうところがあると思う。
 私は二十歳で難病になって、それから十三年間、闘病生活を送った。今でも通院している。それくらい長く患者をやっていると、患者のプロのようになってしまう。板前さんでも、十年修業をすれば一人前だ。医師より知識が豊富な場合もあるし、「あなたのほうがもうよくわかっているから」と、薬の増減を医師からまかされることもある。
 しかし、医師とはやっぱりちがう。なにしろ、自分の病気のことしか知らないし、自分ひとりの病状しか知らない。医師は、身体全体のことを知っているし、さまざまな病気のことを知っているし、たくさんの症例を見てきている。そうした視野の大きさが、ひとりの患者のひとつの病気を診るときにも、それこそ大きなちがいとなる。
 この本にも、「素人の診断、プロの診断──プロ診断医はどこが違うのか」という章があって、「プロと素人との間に決して超えることのできない壁がある」「確実に言えるのは、豊富な知識だけではプロの診断医にはかなわないということです」と断言されている。
 今は、身体に何か異常があると、まずはネットで検索してみる人が多いだろう。そうすると、軽い病気から、ドキリとするような重い病気まで、ずらりと候補が出てくる。そこから絞り込むのは、素人には難しく、「もしかすると大変な病気なのでは……」と不安になる。
 私が難病になったときも、病院に行く前に、『家庭の医学』のような本でいろいろ調べた。そして、この病気なのかも、あの病気なのかも、と悩んだ。しかし、後に病院で判明した病名は、まったく聞いたこともないものだった。自分がなった病気なのに、初耳の病名であることに、何か不思議な感じがした。
 不思議なのは、それだけではなかった。「潰瘍性大腸炎」と診断は確定したのに、「原因不明の病気です」と言われた。何の病気かはわかったが、その病気についてはまだよくわかっていないのだ。しかも、治療法は確立しているが、完治することはないというのだ。完全には治らない治療法しかないのだ。
 では、「診断」とは何なのか? 「治療」とは何なのか?
その長年のもやもやに対する答えも、この本に書いてあった。その答えをここで要約して書くことは難しい。だからこそ、一冊かけて書いてある。
 「診断」についてだけで、まるまる一冊書いてある本というのは、これまでなかったのではないだろうか。専門書ならともかく、これは一般向けに書かれた本だ。
 今は診断というと、CTとかMRIとか最新の機器もたくさんある。名医の勘というような名人芸の世界ではなくなり、機械が正確に診断してくれそうなイメージがある。しかし、これもちがうらしい。たとえば、くも膜下出血は命に関わるので、「全ての頭痛患者さんにCTをしてしまえば見逃しがなくなるのではと普通思います。ところが実際にはそうではありません」
 診断にまつわるこうした意外な話が、この本には、次々に出てくる。長年、患者をやっていても知らなかったことばかりだ。
 本の後半になると、「四次元の思考」で治療の筋道を考えるというような高度な話も出てくる。診断ということをつきつめると、哲学や思想の領域に突入していくことになるようだ。
 だから、この本の読み方は、大きく二つあると思う。
 ひとつは、素人(患者)として、プロ診断医が情報(検査結果や画像など)をどう分析して、頭の中で何を考えているのか、ということを知るために。
 もうひとつは、命がかかった現場で磨き上げられた、究極の思考法を知るために。この本はそういう哲学・思想書でもある。
 

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