ちくま新書

渋沢栄一の思想・行動の全体像をつかむ

「近代日本資本主義の父」とも称される実業家・渋沢栄一(1840-1931)の生涯を年代順に追い、人脈・立身・偉業の全貌を描き出した『渋沢栄一――日本のインフラを創った民間経済の巨人』。渋沢の生きざまを知るための決定版入門書である本書のプロローグを、試し読みとして公開します。

 新一万円札の肖像に選ばれた渋沢栄一とは、どのような人物であったのか。渋沢の評価は時代とともに変化してきたが、一九三一年十一月十一日に渋沢が死去した際、左記の勅使の御沙汰書が、最も彼の人生の意を尽くしているであろう。

 高ク志シテ朝ニ立チ、遠ク慮リテ野ニ下リ、経済ニハ規画最モ先ンシ、社会ニハ施設極メテ多ク、教化ノ振興ニ資シ、国際ノ親善ニ努ム、畢生公ニ奉シ、一貫誠ヲ推ス、洵ニ経済界ノ泰斗ニシテ、朝野ノ重望ヲ負ヒ、実ニ社会人ノ儀型ニシテ内外ノ具儋ニ膺レリ、(後略)
(一九三一年年十一月十六日付『官報』第一四六五号)

 江戸時代末期に生まれた渋沢栄一(一八四〇―一九三一)は、明治、大正、昭和の激動期を生き抜き、公益の増大を図るため、論語と算盤(道徳経済合一説)に基づき、五百近くの企業の設立や経営に関係した「近代日本資本主義の父」とも称される実業家である。それだけではなく、渋沢には財界のオピニオンリーダー、日米・日中関係改善に尽力した国民外交家、さらには社会福祉、教育などの分野で救済事業や寄付を通じて支援した社会企業家、慈善事業家(パトロン、フィランソロピスト)などさまざまな代名詞がつけられている。彼はこれほど多くの分野で活動し、近代日本の経済社会の基盤整備を行った人物であった。したがって渋沢の人生については著書『論語と算盤』や自伝の『雨夜譚(あまよがたり)』に加えて、数多くの啓蒙書、小説、評伝、研究書が刊行されている。
 渋沢栄一に関する書物や雑誌記事が頻繁に目につくようになったのは、二〇〇八年のいわゆるリーマンショック以降のことである。一九九〇年代にバブル経済がはじけた時にも渋沢が注目されたが、それをはるかに上回ったのはなぜであろうか。
 まず、リーマン・ブラザーズの経営破綻に端を発する米国金融界の混乱と世界同時不況により、強欲な「金融資本主義」が厳しく批判されたためである。世界中の研究者が、市場原理主義に基づくグローバル資本主義の暴走を止めるために、経済倫理の重要性に注目し始めた。アダム・スミスの自由放任論や「見えざる手」の前提となる道徳に関する彼の著作『道徳情操論』が再認識され、渋沢栄一の説く道徳と経済の一致にも耳を傾けるようになった。
 第二の理由は、中国の急速な台頭により、世界中が中国の動向に左右されるようになったことである。中国では、「国家資本主義」体制の下、高度成長に伴う貧富の格差や官民癒着、大気汚染など社会に大きなひずみが次々に生じている。中国の政治家、企業家、研究者も、問題解決のために経済道徳の必要性を認識し始めた。その中で、伝統的な儒教思想に回帰する企業家や研究者は、儒教の道徳に基づいて新興国日本の経済発展を導いた模範的事例を渋沢栄一に見出した。渋沢の『論語と算盤』を中国語に翻訳すると同時に、解説書や啓蒙書を刊行し、渋沢の思想や行動を学ぶようになってきた。
 日本人もこうした世界の流れに敏感に反応し、『論語と算盤』への関心は高まり、原典ばかりでなく啓蒙書が数多く刊行され、ベストセラーにもなっている。このように渋沢栄一の名前はつとに知られ、内外で注目を浴びているにもかかわらず、彼の全体像は意外なほど一般には知られていない。
 通説では、渋沢は「論語と算盤」つまり道徳と経済という、一見相容れない価値を両立させる道徳経済合一説という思想的基盤に立ち、公益を追求した人物ということになっている。一九九〇年代から三十年間にさまざまな分野で渋沢栄一研究が進み、近年では渋沢に対して、十八世紀フランスのサン= シモン主義の影響を受け、「論語と算盤」という思想的な基盤に立脚した「合本(がっぽん)主義」者という見方が生まれ、さらに渋沢の論語理解の分析や合本主義の国際共同研究が進展し、議論を補強した。
 これらは渋沢の思想や行動を包括的にとらえる試みで、説得力はあるが、なおいくつかの疑問が残されている。例えば、明治時代の渋沢は四民平等の原則のもと、広く人材を集め、万機公論に決するという「五カ条の誓文」の精神に則り、猛烈なスピードで日本社会を改革していった。江戸時代に北関東の富農に生まれ、二十代後半まで日本社会で育った渋沢が、欧米の民主主義や資本主義を日本に導入する際に、その制度の背景にある異文化との間で葛藤する中で、彼の思想がどのように形成されていったのか。論語を中心とする儒教思想だけでは説明できないのではないだろうか。
 また渋沢は、算盤という経済的な合理性を重視し、五百近くの企業とそれを上回る六百近いフィランソロピー(慈善、奉仕)分野の団体や個人の活動に関与し、日本の経済と社会を発展させ、豊かにすることに大きな貢献を果たした。こうした活動を進めるための手法として用いた合本主義を、どのように全国に普及させたのであろうか。そのために解決しなければならなかった異文化交渉には、どのような困難を伴ったのであろうか。これらの本源的な疑問を明らかにしなければならない。
 そこで本書では、三つの試みを行う。まず渋沢栄一の思想や行動をより明らかにするため、論語と算盤に加えて、「民主化」という概念を取り入れる。「民主化」の主な要素は、自主、平等、参画、熟議、公論からなる。東アジアの歴史と伝統の中には、「民主化」の対極として考えられる官尊民卑と重農抑商の思想が存在していた。官尊民卑とは、統治する側の「官」が社会の大きな流れを作り、「民」はそれに従っていれば良い生活が送れるという発想であった。いわゆる「知らしむべからず依らしむべし」である。
 重農抑商とは、農業社会を理想とし、商業活動や生産活動を卑しいものと見下し、商工業者の社会的地位を低くする考え方である。日本では徳川時代に士農工商の身分制度の中で、農民は武士に次ぐ身分であったが、商人は一番下に位置付けられた。それでも中国には儒商(儒教的企業家)という言葉があり、日本でも大坂の懐徳堂や泊園書院などでは、儒教を学ぶ商人が存在していた。しかし朝鮮では、儒商の伝統はなく、学者は「義」を追うものであり、「利益」を求めてはならなかった。それほど利益を追求する商人の地位は低かった。
 こうした商業に対する見方を変え、商人の社会的地位を向上させようと考えた渋沢は、論語を読み込み、「義」と「利」の合一を唱え、「民」を重視する視点を発見し、商工業によって社会が豊かになることこそ道徳の実行に不可欠であるといった読み方を示した。
 しかし論語の読み替えだけでは東アジア社会に根強い官尊民卑や重農抑商の気風を改めることは難しかった。そこでヨーロッパから導入された自由、平等、独立、博愛などの民主主義の基盤から、渋沢は、階級に関係なく平等に、自主的な生き方により、社会事業に自由に参画できるとした。また物事はできるだけ論議を尽くして決定し、その目指すところは、公益を追求することを理想として取り入れ、日本の経済発展を促進したのであった。
 渋沢の方法は、欧米の民主主義をそのまま取り入れることではない。そこで本書では、「民主化」とカギ括弧をつけることにする。また、この「民主化」はあくまでも立憲君主制(天皇制)のもとで進められた。
 渋沢の国際関係にかかわる事業全体を見渡すと、「国民」という言葉を常に使用しているものの、やはり政府や外務省の「官」とは一線を画し、あくまでも「民」主導で「官」に協力するという立場を貫いている。したがってここでも、「民間」外交とカギ括弧をつけて記述する。
 二つ目の試みは、渋沢の人生を編年体で俯瞰することである。いままでの渋沢の評伝や研究書は、経済、経営、思想、民間(国民)外交、福祉、教育などの分野別に彼の人生を語るものが多かったが、これも渋沢の全体像を見えにくくしていた。渋沢の真骨頂は、公益を増大することを大きな目標に掲げて、あらゆる事象に関心を持ち、同時並行的に粘り強く実行したことである。そこで本書では、六つの章に分けて、彼の九十一年の人生を編年体で俯瞰したい。
 三つ目の試みは、同時代の国内外の人物との比較の視点を導入し、世界史の中で渋沢栄一を位置づけ、そこから二十一世紀に渋沢から何を学ぶかを考えることである。
 人物研究を深みのあるものにするためには、いつも同じ土俵で議論するのではなく、舞台装置を変えてみる必要があろう。能や歌舞伎を、パリのオペラ座やニューヨークのブロードウェイ、中国の京劇の舞台などで上演すると、新たな発見や思いがけない評価が生まれるようなものである。つまり渋沢栄一という人物を、近現代日本史から東アジア近現代史、さらには世界史という広い舞台に乗せて、彼の思想や行動を改めて分析する。
 エピローグでは、いま渋沢栄一から学ぶべきことを考えてゆく。二十一世紀に入り、西洋(アングロ・サクソン)中心の統治(ガバナンス)や経営の限界、中国[東アジア]の台頭、地球環境問題、大規模自然災害などグローバルな課題に対して、民主主義や資本主義はその処方箋を提示できない状況にある。さらに新型コロナ・ウィルスの世界的な蔓延は、グローバル社会のあり方を根底から揺さぶっている。渋沢栄一の思想や行動を踏まえて、将来のグローバル社会の中での日本のあり方と「民」の果たす役割について示唆したい。

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