ちくま新書

徳川家康の英国人側近の正体
プロテスタント、船大工、航海士、英国海軍船長、冒険家、海賊……

大航海時代の欧州から戦国末期の日本へ。家康の外交顧問・三浦按針となった英国人の波乱万丈人生で読むグローバル・ヒストリー『ウィリアム・アダムス――家康に愛された男・三浦按針』のまえがきを公開します。

 今より遡って四百年以上も前のことである。関ヶ原合戦を控え、戦国時代が終わろうとしていた頃だった。オランダ船に乗った一人のイギリス人航海士が日本に漂着した。彼の名をウィリアム・アダムス(三浦按針)という。アダムスは、徳川家康の信頼を得て、側近の一人として家康の外交政策に大きな影響を及ぼした。
 イギリスの航海士が戦国武将に仕えるという話は人々の想像力を搔き立てる材料である。それがために、アダムスについてこれまで数多くの書籍が刊行されてきた。しかし、それらのほとんどはアダムスの偉業を讃(たた)える内容に偏っている。この種の書籍では、アダムスの偉人としての側面を強調するあまり、史料で裏付けられる事実から離れてしまいがちだ。また、史料から立ち現れるアダムスの人間的な要素が書き手の都合で割愛(かつあい)される傾向も強い。その結果、アダムスの真の姿がかすんでしまっている。
 しかし、人間的な側面こそがアダムスの真骨頂だと筆者は思う。アダムスは文字通りの国際人だった。現代人にとっては、英雄的側面よりも、むしろ国際人としての振舞いが国際化する社会を生き抜く一つの指南になりうる。
 アダムスの真の姿を浮かび上がらせるためにはどうすればいいのか。まずは、史料批判に堪えうる当時のアダムス関連史料のみから人物像を再検討することが鉄則である。アダムスについての現存する同時代の史料は比較的多い。たとえば、アダムス自身が書いた複数の手紙や航海日誌が現存している。また、一六一三年から一六二三年まで日本に設置されていた平戸イギリス商館関連の日記や手紙にも、アダムスの行動に関する記述が豊富に含まれている。これらの記述からアダムスの人間的な側面を再現することが可能である。
 さらに、一六〇九年に設立された平戸オランダ商館に関連する史料にもアダムスへの言及が散見される。そのほかに、アダムスが乗船し、日本にまで辿り着くことになったリーフデ号に関連する詳細な史料もある。これまでのアダムス研究は主にイギリス側史料をもとに行われてきたが、オランダ側史料にも、アダムスについて一般に知られていない情報が多々含まれている。
 これらの史料と共に、わずかに残っている日本側・ポルトガル側・スペイン側史料を複合的に用いれば、アダムスの実像に迫ることができるだけでなく、その頃の時代背景、とりわけオランダ人とイギリス人のアジア進出、ポルトガル人およびスペイン人との関係、アジア情勢と日本の対外関係といった様々な側面からアダムスの生涯を照らし出すことができる。
 また、アダムスの記録を通じて、家康の外交手腕もみえてくる。家康は、その後継者たちと違って、活発な外交活動を行った。家康の外交に関する日本側史料はほとんど残っていないためか、このことはあまり知られていないようだ。それゆえ、鎖国を始めた為政者というイメージが強い。一方、西洋側史料を見ると、まったく逆の事実が浮かび上がる。家康は日本の門戸を西洋人に開いて、積極的な誘致活動まで行った。外交顧問としてのアダムスの活躍を出発点として、家康の見事な外交手腕も浮かび上がらせることができる。
 アダムスは何か英雄的な偉業を成し遂げたわけではない。彼はいたって普通の人だった。はるかに遠いイギリスから海を渡って、日本に辿り着いた。そして、家康に気に入られ、日本の外交に大きな影響力をもつようになった。しかし、家康が死去すると、アダムスの運命は暗転した。秀忠の代になると、以前のような厚遇はなくなり、影響力も過去のものとなった。最後は、江戸から遠く離れた平戸で亡くなっている。
 本書では、このアダムスの波瀾万丈の人生について、時代背景を絡めながら語っていく。

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