みんな”普通

第3回 たまに思い出す先生がいる

高校生だった頃、生徒から怖れられる体育教師がいた。その時は、反抗する生徒が悪くてその教師は正しいと思ってた。でも……それは生徒に厳しいんじゃなくてヤバい人なのかも?

高校時代の体育教師のことをいまでもたまに思い出す。ぼくの卒業した高校は偏差値が37ぐらいの超がつく学力の低い高校だった。英語の授業がアルファベットのABCを書くことから始まるぐらいのバカ高校って書こうかとおもったけど、在校生に申し訳ないので、学力の低い高校と遠慮して書いた。

卒業したのはもう20年近く前になる。当時は『池袋ウエストゲートパーク』が流行したり、不良漫画も人気があって、不良に憧れて不良になってしまう生徒がとてもおおかった。喫煙や飲酒、盗難や恐喝やイジメなどはあたりまえで、警察に捕まってしまう生徒もいた。

そんな不良高校につきものなのが、生徒から恐れられる体育教師だ。上下ジャージ姿で竹刀をもって生徒を威圧したり恫喝をしたり、問答無用で所持品検査したり、ときには殴ったりとやりたい放題だった。

怖い体育教師も漫画やドラマによく出てくるけど、不良生徒も怖い体育教師もどちらも漫画やドラマに影響を受けすぎだ。高校生の頃のぼくはこの体育教師がとても怖かったし、不良生徒も苦手だったのでとても居心地の悪い学校だった。

 

生徒たちを恐怖で統率していた体育教師が、ぼくが卒業をしてすこし経ったあと警察に逮捕された。学校での暴力で捕まったのではない、女子高生を買春して逮捕されたのだ。現役の高校体育教師が女子高生を買春して逮捕されたので、当時は大きく報道もされた。

「〇〇(先生の名前)教師 逮捕」とググってみると、ネット掲示板などいくつか出てくる。体育教師が逮捕された当時の年齢は、いまのぼくとほとんど変わらない。

ぼくがまだ高校生だった頃は体育教師のいってることや、やっていることが正しいと思い込んでいた。反抗をする生徒が悪い、いうことを聞かない生徒が悪い。悪いから威圧をされたり殴られる。それが嫌だからいうことを聞く、そう考えていた。

でも当時の体育教師とおなじぐらいの年齢になってみると、この体育教師はめちゃくちゃヤバい人間だったということに気づく。

40歳にもなって竹刀をチラつかせて高校生を威圧し、男子生徒にはパワハラ、女子生徒にはセクハラをして、学校ではちいさな独裁者になっている体育教師。どう考えてもただのヤバい人間だ。人生が終わっている、終わっているというか始まっていない。実際に逮捕されたのだからやっぱり終わったのだろう。体育教師というか逮捕教師だ。

体育教師と同年代になったいまならわかる。体育教師はきっと同年代の男性からも女性からも浮いた存在で、まともに相手にされておらず心が満たされていなかったのだろう。それでも学校では王様になれて、支配欲と性欲まで満たされる。

逮捕前は学校だって体育教師のことは黙認状態だったし、不良生徒の保護者だって体育教師のことを支持するだろう。生徒がどんなに苦しもうが逮捕されていなければ、大人の評価はいい先生というものだっただろう。

 

大人は子どもに苦労を強いることにあまり躊躇しない。というよりも大人は子どもの苦労に鈍感だったりする。コロナ禍になって給食を無言で食べるように指導されている子どもは多いだろうけど、大人は会話を楽しみながら食事をしているのが現実だ。自分だったらできない苦労を当たり前のように子どもにはさせてしまうものだ。これは対子どもに限った話ではない。

政治家だって国民には会食を控えるようにいうけど、自分たちはちゃっかりと会食しちゃってる。国民はそれに怒るけど、国民だってうまくグレーゾーンを見つけてやっている。つまりみんな自分に甘くて、他人には厳しいのだ。

この記事をいま喫茶店で書いているけど、となりのテーブルでは高齢者が4人でノーマスクで談笑している、耳が遠いのか声がおおきい。ぼくはぼくで緊急事態宣言中だけど、自宅でもできる作業を喫茶店でやっている。そんなものだ。

金銭的に苦労をしている人に対して、自動販売機で飲み物を買ったり、コンビニでお弁当を買うだけでも贅沢だという人もいる。贅沢のハードルがあまりにも低すぎる。お金の使い方の是非は別にしても、贅沢のハードルが高い人は、自販機やコンビニで買い物することを贅沢だとはおもわない。

贅沢は敵、苦労が美徳という価値観の大人がたまーにいるけど、これは心が貧しい人の発想だ。というか貧しい人が多い時代に、貧しさを肯定して慰めるための価値観だ。贅沢は敵という価値観は貧しさとはとても相性がいい、戦争中はとてもよくマッチしただろう。

自分だけが貧しいと耐えられないけど、周囲のみんなが貧しくなり、貧しさが普通になれば耐えられる。みんな普通が大好きなのだ。

ぼくがおじさんになってわかったことは、日本は格差のある社会で、ぼくが子どもの頃よりもどんどん格差が開いているということだ。そして現実的には贅沢は味方であり、無駄な苦労は最高に無駄ということだ。苦労というのは適切に苦労しなければ意味がない、努力という言葉に置き換えてもおなじことだ。努力だって適切に努力しなければ意味がない。

 

金銭的に貧しくなろうが、心まで貧しくなる必要はない。心が貧しい人は金銭的に豊かになっても、悲しいことにずっと貧しいままだ。自分に甘く、他人にも甘い世界が理想的だともおもうし、心を豊かにすることがまずは大切だ。

学校でも部活動でもバイト先でも近所の公園でも、子どもにだけは強くでてくる大人がいたら、心が貧しい人なんだとおもってるぐらいでちょうどいい。はっきりいって大人の視点で見てもちょっとヤバい人だ。きみたちがおじさんかおばさんになったときに、きっとわかるとおもう。