読みはじめてすぐ、日本語で書かれた英語圏の短篇集を読んでいるような、不思議な感覚に襲われた。ヘミングウェイ、O・ヘンリー、カーヴァー、アリス・マンロー、短篇の名手が次々に浮かぶように、英語圏では、短篇小説は作家の技量が問われる伝統的な形式として確立されているけれど、日本の短篇との違いをきっちり説明するのはむずかしい。例えばフォークナーは、短篇とは登場人物ありきで、「躍動する彼らの後を紙と鉛筆で追い掛け、その言動を書き留める」ものだと言っていたりする。私の感覚では、その特徴のひとつは、物語の世界に引き込む突然の力の強さにあると思う。喩えるなら、一枚のスナップ写真が目の前にはらりと落ちてきて、目にした途端ものすごい力でそのなかに攫われているような感じ。この短篇集に集められた物語には、むしろいきなり知らない人と体がぶつかって、その人の体と入れ替わってしまったぐらいの力がある。
それはもう冒頭の一文から始まっている。「ずっと、ずぼんを穿いていた」(「燃やす」)。「アラスカに行こうと言ったのはトーラだった」(「オーロラ」)。「うっすらと現れた青い線を見たときは、どうしたらいいのか分からなかった」(「マタニティ」)――シンプルな一文でもう、つづきが気になっている。収められた八篇の主人公は、歳も環境もさまざまに異なる女性たちだ。「女の子らしさ」を愛する祖母とそれを唾棄する母とのあいだで育つなか、あるとき性被害に遭ってしまう小学生(「燃やす」)。酔っ払うとみんなが盛り上がるからと飲みつづけるうち、キャバクラでブスキャラを演じるようになる「あねご」。四十代を目前にして待望の妊娠が発覚したのに、不安でたまらず彼氏に言い出せずにいるネガティブ思考の独身女性(「マタニティ」)。それぞれが語る声は、彼女たち自身と読者である私だけに向けられたような正直さや親密さがあって、読んでいるうちにどんどん彼女たちが自分自身に思えてくる。「他人の靴を履く」という表現がこれ以上なくはまる、西加奈子マジックだ。
社会のなかで生きていくというのは、なんとしんどいことだろう。そしてそこで踏ん張って、踏みとどまって生きているという、ただそれだけのことのなんと尊いことだろう――読み進めるにつれてそんな思いがじわじわと胸に拡がる。そして読み終えたとき、それぞれの物語はまったく違うのに、主人公たちはみな同じ体験をしていることに気づく。手垢のついた言葉で曇り、他人の何気ないひと言に切り裂かれても、そんな心を救ってくれるのもまた言葉なのだ。
祖母から母へ、そして娘へという世代のあいだのギャップ。女になること、母になること、年老いていくこと。女のさまざまなフェーズでもつれる糸に縛られて窒息寸前の主人公たちに、風穴を開けるような言葉が突き刺さる。それらはみな、思いがけない遠いところからもたらされる。弱いつながり、いや、つながりすらないにひとしい。ダンサーの恋人とフェアバンクスを訪れた「オーロラ」の主人公は、ガソリンスタンドのカフェで遭遇した老人のひと言に体を貫かれながらも思う。「私は彼に、彼らに、私たちのことを忘れてほしかった。忘れて、ただ生きていてほしかった」。
誰が言ったかも、その文脈やときに意味すらも消滅して、言葉だけが手元に残る。それは「マタニティ」の主人公が、その言葉と引き替えに得た「ただこのからだで生きてゆくのだという、妙な実感」と同じものだ。
私が小学生の頃、消しゴムに好きな人の名前を書いて誰にも見られずに使い切れば恋がかなうというおまじないが流行っていたことを思い出す。おまじないとは、そんな風に消えてなくなるまで使い尽くせば、心許ない自分があとに残るものなのだろう。でもほんとうに長く自分のなかに宿りつづけるのは、そんなおまじないのような言葉たち、物語たちなのだ。
短編集というパッケージに、西加奈子という書き手の魅力がぞんぶんに詰まった『おまじない』。そこに書かれた、ひとが生きることと言葉のかかわりについてアメリカ文学/文化研究者の小澤英実さんにお読みいただきました。(PR誌「ちくま」2021年4月号より転載)