このところ、私にとって地味に心を削られる訃報が続いた。親戚や知人から、宮沢章夫、ゴダール、津原泰水といった作家たち。深夜のYahooニュースで知った19歳のYOSHIの事故死には、生前まったく興味がない人だったというのにひどく動揺して、この原稿の締め切りを過ぎているのに明け方まで彼についてネットの記事を読み漁るのを止められなかった。時代が時代なら山田かまちのような存在になっていたのかもしれないが、現代の死は新たな訃報にすぐ埋もれてしまう。動揺を引きずって、まったく違う内容で書こうと思っていたこの原稿も、本当に昨日読んだ本について書くことになった。
長嶋有の『もう生まれたくない』は、そうした芸能人や著名人など〈遠い他者〉の死について描かれたユニークな小説だ。物語は震災から四ヶ月が過ぎた2011年の7月にはじまる。ごく普通の市民である登場人物たちが、X JAPANのTAIJIやスティーブ・ジョブズ、桜塚やっくんといった著名人から無名の一般人まで、世間の耳目を集めたさまざまな死のニュースに触れる。そういうとき、私たちの大半に生じるであろうあの「あっ」と思う瞬間のことが、ここではこんな風に書かれている。
自分は、悲しかったのだろうか。
「あっ」と生じた自分の(あるいはあのときの先生の)声は、なんの気持ちを表していたんだろう。ゴシップ好きだからといって、訃報に喜びを抱くわけはない。それが親しみを感じていた人のなら尚更のこと。
「悲しい」というのは、噓のような気がする。その人を一方的に知っているというだけである程度生じる親しみと同量の、希薄な悲しみしか持ちようがない。とにかく、あらゆる有名人――あるいは、自分が「知って」いるすべての人――の死に、まじまじと目を向けていたいとも思う。ゴシップを気にするときの品のなさで、そうしたいんだ。
実際には、どんなに遠い人の死であっても、そのときの状況・関係・気分etc.しだいで受け止め方にグラデーションがある。でも最初にそれを知ったときの、「あっ」もしくは「えっ」としかいえない、言葉を失うあの感じ。難しく考えれば〈現実界の裂け目〉とか言ったりすると思うが、次の瞬間にはもう自分の感情や気分に覆いつくされ消尽してしまうその「あっ」のなかだけに、他者の死は存在する。
そしてその「あっ」は、言葉にできない代わり、自分がいま存在してある場所を照射する。「誰かが死んだ時、それを知った場所が、記憶に深く刻まれることがある」という一節を読んで、その体験がぶわっと甦った。叔母が亡くなったというLINEのメッセージを目にしたとき友だちといた喫茶店の鈍く光る黒いテーブル。叔父が亡くなったというLINEのメッセージを目にしたとき娘といたディズニーランドの色あざやかすぎるフライングカーペット……そんなふうに不意打ちしてくる他者の死が、自分のいまいる場所を強く心に焼き付けるということ。それが生きていること、生きていくということなんだろう。
アリソン・ベクダルの自伝的グラフィックノベル『ファン・ホーム』には、近しい人の死をどう受け容れるかについて考えさせられた。彼女が大学生のときにトラックに轢かれた父親の死を、彼女は自殺ではないかと疑っている。ゲイであることを家族に隠しつづけた父と、両親にレズビアンだとカミングアウトした娘。はたから見れば「不自然」で「独特」な、ふたりの親密な絆が娘の視点から語られる。タイトルの「ファン・ホーム(Fun Home)」とは家族が代々営む葬儀屋(Funeral Home)の通称で、「ある家族の悲喜劇」と副題にあるように、子どもの頃から遺体と葬儀が家族の日常にある彼らにとって、死をFunにすることは、父親が施すエンバーミングの技術さながら、生きるための必須の技術なのだ。
兼業で国語の高校教師をしていた読書家の父と、大学で英米文学を学ぶ娘は、文学作品をとおして結びついている。だからこの回顧録は、子ども時代から成年期に至るまで、カミュやフィッツジェラルド、ジョイスの『ユリシーズ』などさまざまな文学作品への言及でびっしりと埋め尽くされている。たとえば本書のはじまりで、父親はこんなふうに評される。「父はイカロスであると同時にダイダロスだった。腕の良い職人にしてマッド・サイエンティストだったダイダロス。息子に羽根を作り、かの有名な迷宮を設計し………社会の掟ではなく、自分の技能に従った男」。
この本でベクダルは、文学作品を解釈するように父親と自分の過去を読み解き、自分たちの人生をさまざまな文学作品や過去の作家たちの人生になぞらえていく。だがそれは、父親や家族の過去を美化したり神話化したりすることとは決定的に質が異なる。語り得ないものは、語ることができない。だから彼女は、その読めないコードをそのまま暗号機に入れて変換するほかないように、そっくりメタファーに変換していく。その作業は、彼女が父の死を受け容れ、悼むためのたったひとつの方法なのだ。語ることで損なわれてしまうものに対して、語ることを放棄しているベクダルの語りに、私は深く感じ入った。
そしてイーユン・リーの『理由のない場所』である。十六歳の息子を自死で失った小説家の母親が、死後の息子と言葉だけの世界で再会し、会話しつづける物語だ。リー自身の実体験にもとづいている「私小説」でもある。篠森ゆりこによる訳者あとがきによれば、リーは息子の死後、いろいろな本にあたって深い悲しみを表現できている本を探したが、悲しみを扱う本の大半は、彼女にとって完全に満足できるものではなかった。そこで彼女は、「自分の悲しみの本を作らなければならないと考えた」のだという。とはいえ本書は、彼女が現実を受け容れたり、自分の悲しみを癒やしたりするため(だけ)の本ではない。
そうしてできた本書は、「小説」とは思えないほど筋もなにもない。母と息子の他愛のない日常のやり取りや議論に終始し、単調ですらある。だがその会話の盗み聞きをしているうち、ふとそこに、溺れる者が救命具を摑むようにその単調さにしがみつく母親の姿がみえる。この会話の応酬を、そうと知りつつ自作している母親の喪失の深さが、その瞬間に奔流となってどっと押し寄せてくる。
読んでいる間じゅう、私が居あわせている時空間の不思議さに圧倒されていた。現実に起きた出来事は、語ることで必ず変容してしまう。だからリーは、息子が生きていた頃ではなく死後の物語を書いたのだろう。彼がいる時間は、作中で死後(アフターライフ)ではなく未来(アフタータイム)と呼ばれる。そして語り手は、息子と出会う場所を、映像も音もない言葉でできた世界にするというルールを決める。彼女には息子の姿が見えない。言葉だけでつくられたその平面の世界で、ふたりはこんなやり取りをする。
詩と物語は、語り得ないことを語ろうとしているんだよ。
ママは言葉は不十分だっていつも言ってるよね。
言葉は不十分。それはそうなんだけど、言葉の影は語り得ぬものに触れられることがある。
ぽっかりと開いた奈落の底に張られたか細い言葉のロープの上を、目をつむり、耳を塞ぎながら歩いている語り手と、語り手にとても近いリー。そんな情景が思い浮かぶ。こんな不幸が訪れる前に一度だけ会ったリーのことを思い出す。慎ましく控えめな佇まいではにかみ、小さな声で話していたリー。でもそうして書き上がった小説が読者に手渡されたとき、私が出会ったその場所は、もうけっしてただの細いロープではなかった。読んでいる間じゅう、私はいまどこにいるのだろうと思わずにいられなかったが、それはどこでもない、かつてどんな読書のなかでもいたことのない場所だった。
「私たちに必要なのはどこかへ導いてくれる光ではなく、どこでもないところにいる決意なのだ」――小説のなかの一節が、ふいに脳裏によみがえった。