ちくまプリマー新書

なぜリスクの問題に心理学がからむのか?
『リスク心理学』(中谷内一也著)より本文を一部公開

コロナから原発、飛行機事故から児童虐待まで――。『リスク心理学――危機対応から心の本質を理解する』(ちくまプリマー新書)が好評発売中! 遭遇するかもしれない望まざる事態を、われわれの心がどのように受け止め、どのように反応しようとするのか。危機に対応する心の動きには、人間の本質が浮かび上がる。本記事ではリスク心理学誕生の背景に迫ります。

 私たちが生きる環境にはさまざまなリスクが潜んでいます。大気や食品、飲料水には有害物質が含まれていますし、交通事故や地震、台風、新型コロナのような感染症、温室ガスによる大規模気候変動……、あげ出すとキリがありません。それらにどう立ち向かうべきか?

 素朴に考えると、それぞれの分野の専門家がリスク評価を行い、リスクを下げるための可能な対策をリストアップし、その効果と対策実施に必要なコストを睨んで、最適な対策を実施すれば良いということになります。なぜ、そこに心理学、すなわち人びとの心の問題がかかわってくるのでしょうか。

 いくつか理由がありますが、ひとつあげられるのは、時代の流れです。

 パブリックコメントやインフォームド・コンセントという言葉を耳にしたことはありませんか? パブリックコメントは行政が規制などを制定する場合、事前に広く人々の意見を求めることであり、意見公募手続きとか、意見提出制度などとも呼ばれます。政府や行政が勝手に政策を推進するのではなく、影響の及ぶ人たちに政策の中身を伝え、意見表明の機会を保障する制度で、その気運が高まったのが一九八〇年代、制度として整えられたのが九〇年代でした。

 インフォームド・コンセントは治療についての患者の自己決定権を保障する制度で、医師が患者に対して治療方針についての説明を行い同意を得ることを求めるものです。わが国でこれが法的に明文化されたのも一九九〇年代後半でした。これらの制度に代表されるように、ここ何十年かで、「影響が及ぶ人に方針を説明し、理解を得た上で実施する」という手続きがいろいろな分野で重視されるようになりました。

 別の見方をすると、それまでは行政や専門家が先に決定をしてしまい、それを人びとに説明し、実行に移す、という傾向が強かったのです。ところが、環境政策などでは決定後にも住民が強く反対し、結局、課題の解決から遠のいてしまうというケースが増えてきました。

 リスク対応の政策も同様で、利害を受ける一般の人びとの考え方を理解し、コミュニケーションを図り、政策に反映させることが必要になってきました。それには、人びとがどういうふうにリスクを捉え、反応するのか、リスクをどうしたいのか、などの心理を理解する必要があります。

 しかし、この理解は一筋縄ではいきません。二〇二〇年初め頃、新型コロナの感染拡大期にマスク不足が大きな問題となりました。マスクを求めて人びとはドラッグストアに長蛇の列をなし、それでもなかなか手に入れることができず、多くの人が困っていました。そんな中、政府は一世帯あたり二枚のガーゼ製マスクの配布を発表しました。ところが、評判は芳しいものではありませんでした(実は私自身もこの発表には力が抜けてしまいました)。

 でも、よくよく考えると、なぜ、マスクの全戸配布は評価されなかったのでしょうか。

人びとはマスクを強く求めていて、その希望に応える政策だったのですから、(モノがショボかったとは言え)もっと肯定的に評価されても良かったはずです。結果的には国民が政府のリーダーシップに求めていたものはマスクの配布などではなかったということになりますが、このように、リスクに対応しようとする人々の心理はなかなか捉えがたい。だからこそ研究対象として面白いのです。

 また、リスクの問題に心の問題がかかわってくる理由は、そもそも何を「立ち向かうべきリスク」として捉えるかは人々の気持ち次第だからです。そういう意味では「なぜ、リスクに心理学が関係するのか」というのは疑問の立て方が逆さまであって、「人々がある対象を心理的にリスクとみなすからこそリスクが生まれるのだ」ということになります。

 著名なリスク心理学研究者であるポール・スロビックの言葉に「危険は実在するが、リスクは社会的に構成される」というものがあります。毎年犠牲者を出しているのに軽視される死因がある一方で、誰も命を落としていないのに強く警戒される問題もあります。私たちが何をリスクとして捉えるのかを理解することは、私たちが世界をどのようなものと認識しているのか、どのような世界を望んでいるのかを知ることにつながります。

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