ちくま新書

ミャンマークーデターから5カ月(下)――翻弄されるロヒンギャ
『ミャンマー政変』著者、北川成史によるレポート

7月8日、『ミャンマー政変――クーデターの深層を探る』(ちくま新書)が刊行されました。東京新聞・中日新聞バンコク支局特派員としてミャンマーでの取材を重ねた北川成史記者が、今年2月1日に発生したミャンマー国軍によるクーデターの影響を辿り、その複雑な背景について掘り下げています。
世界に衝撃を与えたそのクーデターから5カ月余り経ちますが、事態の収拾する見通しはまったく立っていません。国軍と民主化を希求する市民との溝は深まるばかりであり、本格的な内戦化の恐れすら指摘されています。『ミャンマー政変』脱稿後の情勢を追加取材していただきました。

『ミャンマークーデターから5カ月(上)――深まる国軍と市民の溝』はこちら。

市民権付与の約束
 クーデターを起こしたミャンマー国軍に対抗するために民主派勢力が樹立した「挙国一致政府(NUG)」は6月3日、西部ラカイン(アラカン)州に住むベンガル系の少数派「ロヒンギャ」に関する声明を発表した。
 声明は、現行の国籍法を廃止し、隣接するバングラデシュからの不法移民として扱われてきたロヒンギャに市民権を与えると約束。国軍の掃討作戦に伴う迫害でバングラデシュに逃れたロヒンギャ難民の早期帰還を図り、必要に応じて、ジェノサイド(民族大量虐殺)などを犯した人物を裁く国際刑事裁判所(ICC)の捜査にも協力すると表明した。
 翌4日にはオンラインの記者会見を開催。ミャンマー西部チン州出身の少数民族で、NUGの国際協力相を務めるササ氏は、ロヒンギャに「兄弟姉妹」と呼び掛けた。

 国民の9割が仏教徒のミャンマーで、ロヒンギャはイスラム教を信仰する少数派だ。
2017年8月にバングラデシュへの大規模流出が始まる前の時点で、推定人口は州全体の3分の1にあたる約100万人。農業や漁業に就いてきたが、多くは無国籍状態に置かれていた。
 ミャンマーの現行国籍法は、国軍のネウィン将軍が樹立した独裁政権下の1982年につくられた。同法は先住民族には自動的に市民権を与える。先住民族は英国による植民地化が始まる1824年より前からいた人々と規定された。リスト化され、ビルマ、カレン、ラカインなど8つの主要民族グループのもと、135のサブグループに分かれている。
 このリストに、ロヒンギャは含まれていない。ラカイン州には古くからベンガル系の人々が一定程度いたとみられるが、植民地化後にバングラデシュ地域から多数の流入があった歴史などが影響し、ロヒンギャは先住民族の枠組みから除外されてきた。
 このため、代々居住している人がいるにもかかわらず、ロヒンギャは移動の自由や教育の機会を制限され、他民族からは「ベンガリー」という蔑称で呼ばれるなど、さまざまな面で差別を受けてきた。
 抑圧的な状況に対し、ロヒンギャの武装勢力「アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)」は、アウンサンスーチー国家顧問率いる国民民主連盟(NLD)政権下の2017年8月、ラカイン州内で警察や国軍の施設を襲撃した。反撃に出た国軍など治安部隊の掃討作戦の中、殺人やレイプなどロヒンギャへの深刻な迫害が起き、70万人以上がバングラデシュに逃れた。
 NLD政権時代のミャンマーとバングラデシュの両政府は、難民の帰還開始で合意したが、帰国後の権利保障に対するロヒンギャの不信感は強く、希望者が現れなかったため、計画倒れに終わっていた。

共闘の模索
 クーデターから1カ月半余りたった3月23日、多数派民族のビルマ人を中心とする在日ミャンマー人と在日ロヒンギャのリーダーが、東京都内で共同記者会見を開いた。
 母国で微妙な関係にある両者が同席する会見は珍しい。クーデターを起こしたミャンマー国軍に対し、結束して戦う姿勢を見せるためだという。
 ロヒンギャのゾ―ミントゥさん(49)は「ミャンマーで暮らす全ての人々のために国軍を排除する」と訴え、ミャンマー人のチョウチョウソーさん(58)は「敵とは国軍で、私たちお互いではない」と力を込めた。

 

東京都内で21年3月23日、共同記者会見を開くゾーミントゥさん(左)とチョウチョウソーさん

 

 2月1日のクーデターの後、国軍への反発から、民族間の距離を縮めようとする動きが現れていた。
 拙著でも、ミャンマーの著名な作家2人が、国軍によるロヒンギャ迫害に沈黙してきた過去をSNSで謝罪したことなどに触れた。
 冒頭のNUGの声明は、こうした流れに沿ったとも言える。

 6月下旬、筆者はゾーミントゥさんに会った。「ほとんどのロヒンギャが声明を歓迎している」と受け入れつつも「100%は喜べない」と揺れる心情をにじませていた。
 声明で約束した市民権付与が、ロヒンギャの要望通りに先住民族と認める意味なのか、明示されていないからだ。あくまで移民のような扱いで、帰化しやすくするというだけなのか、気に掛かるのだという。
 ミャンマーが軍政下にあった1998年、ゾーミントゥさんは日本に亡命した。スーチー氏が率いる民主化運動を支持し、逮捕の危険が迫ったためだった。
 亡命前、ゾーミントゥさんは最高学府ヤンゴン大の学生だった。ロヒンギャとしては少ない例だが、地元ラカイン州の大学で成績優秀だったため、ヤンゴン大に入学が認められた。ただ、本来の志望だった法学や医学など、一部の専門分野はロヒンギャに門戸を開いていないため、やむなく動物学を専攻した。
 日本では2002年に難民認定を受けた。母国が民主化し、差別が解消されるように望み、軍政に軟禁されたスーチー氏の解放を求めて、日本で何度もデモに参加した。
 時が経ち、ミャンマーが民政移管し、解放されたスーチー氏のNLD政権が16年に成立したが、期待にはそぐわなかった。
 国軍による迫害でかつてない規模の難民が発生するなど、ロヒンギャを取り巻く環境は悪化。にもかかわらず、スーチー氏はロヒンギャを守る積極策を打たないまま、「ジェノサイド」との国際的な批判に反論し、迫害に関する捜査や処罰はミャンマーに任せるべきだと主張した。「ロヒンギャ」という呼称の使用も避けていた。
 クーデターでスーチー氏らNLDの主要幹部が拘束された後、残った民主派勢力は今年4月にNUGを樹立した。NUGはトップの国家顧問にスーチー氏を据えている。今回のロヒンギャを巡る声明は、以前のスーチー氏の言動と食い違いがある。拘束中のスーチー氏との接触が難しい中、声明に至るまでに、齟齬を乗り越える詳細な議論が尽くされたとは考えにくい。
「NUGは厳しい状況にある。だから声明を出した。本当の心からの内容か、分からない」。ゾーミントゥさんは冷静に語る。
 ロヒンギャへの人権侵害を巡り、ミャンマーは欧米を中心に、国際社会から非難を浴びてきた。NUGは国際世論を味方に付けるため、ロヒンギャに理解ある姿勢をアピールしているという見方だ。