十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス

第11回 僕の大好きな先生

寺子屋ネット福岡の代表として、小学生から高校生まで多くの十代の子供たちと関わってきた鳥羽和久さんの連載第11回。大好きな先生はいますか?

この連載は大幅に加筆し構成し直して、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)として刊行されています。 刊行1年を機に、多くの方々に読んでいただきたいと思い、再掲載いたします。

学びは非対称な関係に依存する

テレビに出ている林先生とかもそうですが、いまの学校や予備校の先生たちはソフトな印象の人が増えました。生徒とフラットな関係の先生というのが、いかにもいまの時代向きという感じがします。

私自身もそうで、感覚的に子どもたちを生徒というよりは仲間としてしか見れないところがあって、若いころはそれが子どもたちと心を通わす際にいい方向にはたらいていると思っていたし、だから勉強を教える際もそのフラットな関係をそのままうまく活用できているつもりでいました。

でも、ある頃から気づいたのは、生徒とフラットな関係の先生にいい先生なんていないということです。なぜなら、これは学びの本質に関わってくるのですが、子どもの能力を開花させるためには、ほとんどの子どもにおいて外からの強制が必要な時期があるからです。

なぜ強制が必要になるかと言えば、子どもは自分に何ができないのか、自分が何を学ぶべきかを知らない存在だからです。じゃあ、何を学ぶべきかを知らない存在が、どうやって学ぶことができるかといえば、この先生は私が知らない謎を知っているのだという「思い込み」によってです。そして謎を知っている先生にいったん自分の身を浸(ひた)してみるということによってです。

そういう思い込みはフラットな関係ではなかなか生じません。つまり、学びは一方がもう一方をむやみに信じ込むという非対称な関係のもとでなければ成立しえないのです。

学びの土台にある欲望を見る

そういえば、テレビの林先生も誰とでも気さくにフラットな関係を作りながら、ときには自分の弱みも見せながら、でも、「先生」の役回りのときには生徒を前にキリッと「先生モード」になりますよね。あれってオレはいま先生だからオレのこと信じろよ、ってことを態度で語っているのだと思います。なぜなら、そうでなければ学びが発動しないことを熟知しているからです。

そう考えると、上からモノを言う先生はダメだとか、宿題の押し付けはダメだとか、先生と子どもは対等であることが大切とか、そういう昨今(さっこん)ありがちな教育論はちょっと一面的です。世間受けは良いでしょうが、学びの土台にある欲望を見ていないんです。

親という人生最初の先生

あなたにはずっと幼いころに、親という人生最初の先生の一方的な強制力に甘んじていた時期があります。

そのときのあなたは、ただ一心に親のことを見つめていました。そして、信じるという言葉が不必要なくらいに、無条件に親のことを信じていて、だからこそ親から深い学びを得ていました。あなたはその過程を経ることで、人間として生きるための基礎を身につけることができました。

親はこのとき、あなたに強制力を行使することを通して、立派にあなたを守り抜き、あなたに主体性を授けました。

でも、親が子どもの先生であることができる時期は短いものです。親の中には子どもが十代になっても強制力の甘い感触を手放すことができない人がいて、そんな親はいまのあなたをひどく苦しめているかもしれません。

あなたにとっての大好きな先生

あなたはかつて、親の笑顔の向こうにある謎を解きたいと切望し、その音声に意味があることに気づき、その意味を知りたいと強く願うことで言葉を覚えました。その意味で、あなたの親は紛(まぎ)れもなくあなたにとっての「大好きな先生」でした。

そして、言葉を覚えたときがそうであったように、いまのあなたも学びたいと念じることを通してしか学ぶことができません。あなたは親以外の「大好きな先生」を見つけることで、親というくびきから逃れ、自分独特の人生を歩むべき年齢になったのです。

その意味では、もしあなたがいま、目の前にいる先生のことが好きではなくて、内心バカにさえしているのだとしたら、決して良い学びは生まれないでしょう。

それなら、あなたにとっての「先生」とはどういう人かと言えば、「謎」を秘めている人です。つまり、得体の知れなさのようなものを感じさせる人です。「あなた自身がまだ知らないあなたの欲望を、私は知っていますよ」そんなふうにあなたの心に迫ってくる人です。

そのときあなたは、「わたしの欲望(学ぶべきこと)を知っている先生の謎を知りたい」と思うでしょう。これが学ぶことを希求する発火点になります。このようにして学びは始まるのです。

子どもの悪口に同調する親

先日、近所の小学校で教務主任をしているT先生と長話をする機会がありました。

「子どもが先生の悪口を言った時に、親がそれに同調していっしょに悪口を言う。これがたった3組あっただけで、簡単に学級は崩壊します。」

T先生は苦々しい顔でそう言いました。見立てに一面的な部分はあるとはいえ、学級崩壊が子どもと先生だけでなく、親を巻き込んだ関係性の中で起きているのは間違いないところでしょう。

親にとって先生というのはときに蹴落(けおと)としたいライバルですから、親は子どもが言う先生の悪口を聞いているとなんだか胸のすく思いがして、子どもの悪口にたやすく同調しがちです。でもそうやって親が子どもの口車に乗っていっしょになって先生のことを侮辱(ぶじょく)し始めると、その先生から子どもが学ぶのは難しくなります。

そういえば、別の学校の校長先生は「親にとって学校というのはいちばん悪口を言いやすい相手になってしまったなぁ」と嘆いていました。確かにこのような昨今の変化は、先生たちが子どもたちから尊敬されにくく、その結果、子どもにとっての学校が「学びの場」としての機能を十分に果たせない一因になっているのでしょう。

学級崩壊は階層問題

少し前に市内でも有数の上位公立中学で学級崩壊が起こり、「なぜあんないい子が多い学校で?」と動揺が広がったことがありました。しかし、これは、階級が高いと自認している親が子どもの前で日常的に学校の先生にマウントを取ったりディスったりしていることを考えれば、特に何の不思議もありません。

つまり、「いい学区」と言われる地区に住む親たちは、社会的にステータスの高い人が多く、そのせいで学校の先生を見下す人がたくさんいて、それが子どもに伝播(でんぱ)することで学級崩壊につながりやすい面があるのです。

こう考えると、学級崩壊は家庭と先生の間の階層問題という一面があります。ということは、学校の諸問題を解決する具体案のひとつは、学校の先生たちのステータスを上げる(医者や弁護士の例を出すまでもなく、給料を2倍にして資格試験の難易度を上げればステータスは上がります)という策になるでしょう。

先生は「世間知らず」であればあるほどよい

そういえば先日、学校でのあるトラブルをきっかけに、先生たちのことを「やっぱり実社会を知らない世間知らず」「一般常識がない」と揶揄(やゆ)する大人たちに出くわすことがありました。先生たちに何らかの瑕疵(かし)を見つけると、こういう形で見下す大人たちは多いです。

でも、そういう人たちって企業主導の社会常識こそが現実であり、偉いと思ってるんですよね? でも、これは先生の仕事の要を全然理解できていないですよ。

先生というのは、実社会を知らないからこそ(知っていてもそれを敢えて重んじないからこそ)子どもと関わる資格があるんです。実社会という狭い「現実」を上位に置くような教育では子どもは育ちません。実社会の方が偉いと思っている大人は、規範的な価値観を教えることはできても、子どもに本質的な理想を語ることはできません。だから、学校の先生たちには、そんな批判に動揺することなく、こっちはもっと大事なことをやってるんだと超然と構えていてほしいと思うのです。

誰にとっても「いい先生」なんていない

最後に、ここまで読んできて、先生を信じるもなにも、周りに「いい先生」がいないんです。そう言いたくなる人もいるかもしれません。

でも、誰にとっても「いい先生」である人なんてどこにもいません。数年前にノーベル生理学・医学賞の栄誉に輝いたH氏から大学で学んだことがある卒業生のWくんとこの前おしゃべりをする機会があったのですが、テレビでH氏の教え子たちが「H先生はほんとうにいい先生で」と感極まって口々に言っているのを聞いて、彼はショックを受けていました。なぜなら、彼はH先生の授業を丸1年間受講していたのですが、先生に何も特別なものを感じなかったんですね。それで僕は授業で何を聞いていたんだと自信をなくしていたんです。

私は、「いやいや、ノーベル賞を取るような人だからってWくんにとってのいい先生とは限らないでしょ」と言ったのですが、Wくんはなかなか納得がいかないようで、世間に認められた「いい先生」は僕にとってもいい先生のはずだ、何か彼から学ぶべきものがあったはずだと彼は思いたかったようです。

でも、もしWくんがこのとき、H先生はノーベル賞を取ったような英知の塊(かたまり)のような人だから、その人の知識から学ぶものがあったはずと考えているとしたら、それは十分に学びについて考えているとは言えません。

なぜなら、先生が「教えたこと」を学ぶだけでは学びが浅いからです。そうではなく、先生が授業中に「うーむ」と考え込んでみたり、息せき切ってムキになって話したりするようすをじっと目で追いながら、いつの間にか先生が教えようとしていないことまで勝手に学んでしまう。そういう勘違いが学びの本質で、教え子たちはそれぞれの受け皿に応じた学びをそれぞれが得ることで次第にH氏を「いい先生」と確信していくわけです。

だから、個々の学びとH先生が教えようとした知識内容とは必ずしも直接の関係はなく、ということはH先生にいくら知識があっても、それが学びにつながるかどうかは全く別の話なんです。だから、Wくんには学びというものをもっと広くとらえて、その人の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)が気になってしまうような大好きな先生を見つけてほしいと思います。だって知識の多寡(たか)にかかわらず、誰もが誰かの先生になりうるわけですから。

僕の大好きな先生

あなたがこれから出会う「大好きな先生」は誰でしょう。大学の先生でしょうか、会社の同僚でしょうか。それとも大切な友人や恋人でしょうか。(前回の連載で出てきたBTSのメンバーたちはARMYにとっての「大好きな先生」ですね。)

先生との出会いというのは、いったん自分の身体がバラバラになってしまうような経験です。そしてバラバラになった身体を再統合して、もう一度生き直すような経験です。そして、あなたの身体をバラバラにした先生は、いつまでもあなたにときめきを与えてくれるエモい存在です。

私は先生に出会えるだろうか。そんなことを心配しなくていいです。あなたが求めるところには必ず、先生はいますから。

※本連載に登場するエピソードは、事実関係を大幅に変更しております。