自動的にいい子になる社会
それにしても、みんなはしょうもない世界に生まれてきました。人類の歴史の中で、これほどに、あらかじめ悪いことができないように設計された社会はなかったはずです。
未成年者が酒やタバコを手に入れようと思っても、年齢認証システムなどにより購入することが難しくなりました。近所の気になる危険な場所は、あらかじめ立ち入ることができないように鉄条網(てつじょうもう)で囲まれています。友達の家を覗(のぞ)いてやろうと思っても、オートロックのせいで近寄ることもできません。他にも、PG-12やR-15、R-18などの映画のレイティング、有害サイトへのアクセスを未然に防ぐフィルタリングなど、例を挙げ始めたらきりがありません。有無(うむ)を言わさぬシステム網が子どもたちをあらかじめ制御しているので、それに身を委(ゆだ)ねていたら、あなたは自動的にいい子になる。いまはそんな社会です。
でも、物事の善悪というのは、本来、自分の身体を使って学んでいくべきものでしょう。それなのに、大人は慎重にふるまうことを教えるばかりで、勇気をもって試してみるということをあなたに教えません。あなたが一歩進んで倒れそうになったとたんに、すぐに抱きかかえてあなたを元の位置に戻してしまいます。試してみるというのは、善悪の沼に飛び込んでみて、泥だらけになって悪の味を知るということなのに、あなたにはなかなかそれが許されません。
システムによる悪の排除によって、確かにあなたは悪をなさなくなるでしょう。それは社会にとって良いことです。だから、大人は今日も悪の排除を進めるのです。でも、悪をなさないあなたは、善をなしているわけではありません。そして、悪をなさないとしても、それはあなたが悪を克服したことを意味しません。
善悪は割り切れない
こんな社会で育ったあなたはまだ、善悪なんて何もわかっていないのかもしれません。わかっていないのにわかったつもりになって自分を善人だと信じているあなたは、結果的に、管理社会にとって都合のいい人間になろうとしています。一生懸命「いい子」を演じてきたあなたにこんなことを言うのは不憫(ふびん)な気もしますが、あなたは今日も、管理社会に加担する、人間の多様な可能性を封じることに躊躇(ちゅうちょ)しない人格をみずから育(はぐく)んでいるのです。
コロナ禍を通してこれまで以上に可視化されたのは、いかに大人が自分の力で何が善で何が悪かを見極めようとしないかということです。どんな悪でも、いったん善いこととされてしまうと、それに対して疑いを持たなくなるのです。
易(やす)きに流れる大人たちによって形成された世論の奔流(ほんりゅう)は、善悪の判断を保留している人たちに牙(きば)をむいて襲い掛かります。人はいったん善に居直ってしまうと、それに疑いを持つこと自体が悪に加担していることなのだと、善に寝返らない人たちを責め立てるのです。
しかし、善悪とは何かという問いは、決して簡単に割り切れるようなものではありません。割り切れないからこそ、善悪の審判は自(おの)ずと戦略的なゲームの結果として、言い換えれば、政治的な(注1)暴力によって下されるわけで、賢明な人たちはその場面こそを注視しなければならないはずです。
悪を実体化する「善き人」たち
それなのに、大人はその複雑な構造を見ることはせずに、悪を実体化することを通して、自分を善の側に置こうとします。だから、私たちが一番に警戒すべきなのは、みずからを善人と確信して、悪人を裁く人です。さらに、悪人にも事情があるはずだと、悪人を憐(あわ)れむ人です。
善き人たちが悪を実体化する例は、数え上げ始めたらきりがありません。たとえば、ブラック企業(最近は幾つかの観点から問題があるとされている用語ですが)という言葉が語られるとき、そこには人間を搾取(さくしゅ)してその尊厳を危(あや)うくする邪悪な主体としての資本家が想定されています。
しかし、これは端的に言って間違いです。資本主義社会における労働者と使用者の関わりを分析し解明したことで知られるマルクス(注2)は、資本家による労働者の搾取を厳しく批判しました。しかし、彼がそこで明らかにしたのは、そのような搾取は、資本家が邪悪だから生じるのではなく、単に資本の論理に従って生産活動をせざるをえなくなった結果であるということでした。
善悪の判断では現象を捉えられない
社会的現象というのは、善悪では説明できないものばかりです。「悪い人」だから悪いことをするという判断はトートロジー(注3)の域を出ておらず、それで何かを解明できたと思ったら大間違いです。(この点で言えば、現在の政治を批判するときに、「悪い政治家」がいるから社会が悪くなるという考えは、間違ってはいないにせよ、短絡的(たんらくてき)すぎます。政治の結果は良くも悪くも政治家個人の意図や目的とは直接結びつかない、それとは離れたものであることを踏まえることが大切です。)
つまり、善悪の判断は個人の意図や目的から離れることができないという意味で限界があります。物事を客観的に捉えようとする際には不都合な見方なのです。
そのような事情から、現象を善悪の判断から切り離してそれ自体として観察することが試みられるようになりました。そして、観察を通してその中にある論理や法則性が発見され、その営みは社会科学と呼ばれるようになりました。このように、社会に生起する現象を善悪などの規範的論理に頼らずに、より客観的な形式によって表現する手法を人間は探り続けてきたのです。
こうした学問の積み上げにかかわらず、何者かを悪に仕立てることで、自分を善良の側に置く大人は現在でも後を絶ちません。彼らは自分が見たくないものは見ないままに、そのくせ誰かを裁く快楽に甘んじるばかりなので、いつまでも問題の構造自体は見えず、解決は遠ざかるばかりです。
善き人として社会的承認を得ることに傾注(けいちゅう)しながら、同時に自己愛という動機に支配された彼らは、うまく立ち回ることができる賢い人間です。でも、「善き人」である彼らがうまくやればやるほどに、きっと社会は荒廃(こうはい)していくことでしょう。