少し前に、ある進学校の小5のクラスで数回にわたって哲学の授業にゲスト参加する機会がありました。ある日の授業で担任の先生が設定したテーマは「どうして友達は大切なのか?」でした。
初期設定を疑わない子どもたち
子どもたちは友達が大切な理由について、自分の経験を踏まえて活発に意見を出し合います。さまざまな意見の中には興味深いものもあったのですが、私がそのとき気になったのは、なぜ誰ひとり「友達は大切」という前提を疑おうとしないのか? ということでした。
「どうして友達は大切なのか?」という問いは、言い換えると「友達は大切なのは当たり前として、じゃあどうして大切なの?」と言っているわけです。でも、「友達は大切」というのは本当に当り前なのでしょうか。話し合いを聞いていた私としては、「友達は大切」だという考えがデフォルトで設定されていることに誰も異論を唱えないどころか、あまりにもその前提をすんなりと受け入れて、それをもとに話し合いが進んでいることに違和感を覚えたんです。
こんなことを言うと、「友達は大切」という考えを疑うなんてとんでもない。そう思う人もいるかもしれません。でも、クラスに30人いれば、友達が多い子も少ない子もいるわけです。友達が少ない子は、そのことに悩んでいる子もいるかもしれませんし、別に気にせずに「わが道を行く」タイプの子もいるかもしれません。そんな子たちの中には、みんなが異口同音(いくどうおん)に「友達は大切」と発言する場の雰囲気(ふんいき)に息苦しさを感じている子もいるかもしれません。自分が日ごろ「別に友達とかいなくてもいい」と思っていることを否定されるような気持ちになる子もいるかもしれませんし、本当はみんなと同じように「友達は大切」と発言したいけど、「そんなこと言っても、お前、友達少ないじゃん」と誰かに後ろ指をさされることが恐くて何も言えない子もいるかもしれません。そう考えると、「友達は大切」だということを前提にした話し合いというのは、少し問題があると言えるのではないでしょうか。
友達についての考えなんて、ひとりひとり違って当り前なのに、発言者全員が「〇〇だから友達は大切」というふうに友達の大切さを語り、誰も話し合いの初期設定に疑問をはさまない。こんなことではいつまでも「友達」について深く掘り下げた話をすることは不可能でしょう。
そもそも担任の先生が「友達は大切」という内容を疑問の余地がないこととして取り扱っているくらいですから、子どもたちがその前提を崩すようなことを発言するのはかなり勇気のいることかもしれません。もしかしたら、これまでのクラスの雰囲気の中で、先生の初期設定を崩さないというのが暗黙で共有されていた可能性さえあります。
でも、自分の中に疑いが生じたのにもかかわらず、少数派かもしれない、みんなの賛同を得られないかもしれないという理由で、口を閉ざしてしまう子がいるとしたら、もったいないなあと思ったのです。そして、そういう子がいる可能性を考慮(こうりょ)することなしにこの話し合いが終わるとすれば、さびしいことだと思ったのです。
前提を崩してみたら教室の空気が変わった、しかし……
だから、話し合いの途中で意見を求められた私は、そういう子が話す機会が生まれたらいいなあと思って、違和感をそのまま子どもたちにぶつけてみました。
みんなは「友達は大切だ」という前提で話をしていて、中には面白い意見も出たけど、でも、本当にここにいる全員が「友達は大切だ」って思って話してるのかな? 今日、みんなは「どうして友達は大切か」をテーマに話しているけど、例えば、そもそも僕は友達が大切だとは思っていない、そういう子がひとりくらいいても何の不思議もないと思うし、それが別に間違った考えなんて思わないんだよね。
私がそう言い終えると、ガラガラッと何かが崩れる音が聞こえた気がするくらい、教室内の雰囲気が一変しました。そして1分近く沈黙が続いた後、ある男の子が意を決したように立ち上がって、「僕は友達はあまり大切だとは思っていません。自分の時間の方が大切です。友達がいなくても僕は楽しいです」と声を震(ふる)わせながら発言しました。私は、わー、すごい子が現れたー!と思いました。
でも、驚いたことに、そのあと彼に続いて同じようなことを言う子が次々と現れたんです。僕も、私も、友達は別に大切じゃない……。そして、そのわずか5分後には、教室中が「友達は必ずしも大切ではない」という空気で満たされてしまいました。私は大いに戸惑(とまど)いました。こんなはずじゃなかった……と思わず頭を抱えてしまいました。
私はどちらかと言うと友達は大切だと思っているほうの人間です。だから、決して子どもたちの話を「友達は必ずしも大切ではない」という結論に誘導したかったわけではありません。そうではなくて、「友達は大切だ」という前提が話し合いの足枷(あしかせ)になってるから、それを外して考えてみようよ、そうしたらもっといろんな考えが出るんじゃないかな、と呼び掛けたつもりだったのです。まさか、教室が「友達は必ずしも大切ではない」一色になるとは夢にも思いませんでした。
こうなった原因は、第一に担任のディレクション(=話し合いの方向づけ)や私自身の話し方に問題があったことは疑う余地(よち)がありません。少なくとも、もう少しましなやり方があったと思います。だから、そのことに目をつぶって話をするのは申し訳ないという気持ちはありますが、それでも大切なことなので、このときに子どもたちの間で何が起こったのかを改めて考えてみたいと思います。
大人の意図を汲(く)み正解を求めようとする
教室の生徒たちは、私の意見を聞いて、すぐにこれまでの話し合いの偏(かたよ)りに気づきました。無自覚に与えられた前提に沿った話だけをしていたことに気づきました。その意味でとても賢い子たちだと思いました。私の考えを聞いた後、それを真正面から受け取ってすぐに内面化する子どもたちの力に圧倒されましたし、そのマジメさに心を動かされました。
でも一方で、危(あや)うさを感じたのも事実です。全員ではないのですが、子どもたちは大人(この場合は私)の意図を汲んで、それに適(かな)う発言をしているように感じられる場面がありました。つまり、私の発言以前は、担任が設定した問いに沿って考えを出すことが話し合いにおける「正解」だったのですが、私の発言後には、私の発言に沿った考えを出すことが「正解」になった。つまり、はじめにあった規範性(きはんせい)が、私の発言を経(へ)て別の規範性に切り替わっただけのように感じられたのです。そこには、急変した教室の空気を敏感に感じ取り、より高次な正解を必死につかもうとする子どもたちの姿がありました。
話し合いにおいて、子どもたちは、自分の経験を大人の正解に寄せて話そうとしていました。でも、それは自分のかけがえのない経験をダシにして大人が求める正解たぐり寄せようとしているわけで、そんなことを繰り返していると、いつの間にか自分自身を損(そこ)なうことになってしまうのです。
みんなは先生や親の機嫌取りをしているとき、「いい子」のふりをしているとき、何となく自分が傷ついていることに気づいているのではないですか。でも、あまりにそれをやりすぎると、自分で自分を傷つけていることさえ気づけなくなりますよ。大人にとって都合のいい子どもでなくてもいい、それを知っただけでぱっと世界が明るく開ける人もいるかもしれません。このことはじっくり考えてみてください。
大人になる過程で、多くの人は自分の生きる実感よりも適応(周りに合わせること)を優先させることで、自信を失っていきます。その結果、自分が好きなようにふるまえないことに対して、できない言い訳探しばかりに明け暮れる大人になります。そして、思いつきで行動しているように見える他人を「無責任」だと非難さえし始めるのです。
「いい子」じゃなくてもいい
みんなの目には、大人は自立しているし、自信を持っているように見えているかもしれません。でも、騙(だま)されてはいけませんよ。たいていの大人は子どもの前でかっこつけています。虚勢(きょせい)を張っています。実際は社会に適応する中で失ったものを知っているから、そんな自分を嘆(なげ)いてばかりいるんです。自分を嘆くことがイヤな人は、代わりに他人を攻撃して鬱憤(うっぷん)を晴らそうとさえするんです。
もしかしたらみんなは、大人になると人生がつまらなくなる。そんな予感をどこかで抱(いだ)いていませんか。もしそうだとすれば、それは自分が社会適応を始めていることに気づいている証拠かもしれません。そうやって自分独特の生き方を手放すことで、これからの人生がつまらなくなることを直感しているんです。だから、これからの人生を面白く生きたいなら、みんなは部分的にでもそれに抗(あらが)わないといけません。
小5の子たちの話し合いは、まるで手持ちの少ない洋服でいかにオシャレするかを競っているように見えるときがありました。そのせいで、どうしても大人の意見や周りの空気に流されやすい。それどころか、周囲の目を過度に内面化してしまって、それを自分の意見のように錯覚してしまう。そんな傾向があると感じました。
でも、これは悪いというよりしかたないところがあります。だって、子どもたちが手持ちを増やしながら大切なことを学んでいくのはこれからですから。「意見に流される」というとさも悪いことのようですが、相手の意見を参考にして自分のモノにすることは必要だし、より高次だと思える結論を志向することがなくては、考えを深めることなんてできません。だから、彼らが大人の意見にたやすくなびいたように見えたとしても、それを弱さとして一面的に非難することはできません。むしろその弱さこそが考えを深めるための条件とさえ言えます。
「生きる実感を育てる」というレジスタンス
それを踏まえた上で、みんなにひとつだけ覚えていてほしいのは、みんなはとことん自分の生きる実感を大切にしたほうがよいということです。周りに歩調を合わせて「いい子」になろうとすることは、周りの人たちのためにはなるけれど、深いところで自分を支えてくれる根拠にはなりません。だから、自分が感じていることをちゃんと感じられる環境にいること、そして、感じていると気づいたときにできるだけ嘘をつかずに、それに対処できる環境を確保することが肝心です。
こうして、生きる実感を大切に育てていけば、あなたはいつかきっと曖昧(あいまい)なことを曖昧なままに受け入れることを知ります。白黒つかない現実の中にこそ、生きる楽しみがあることを知ります。
いつも正解ばかりを求めてしまうのは、生きている実感が足りないからです。実感が足りないから、その代わりにいつも正解というまがいものにすがってしまうのです。でも、そんな不安定なものに支えられて生きていくのはなかなかしんどいことです。なぜなら、それはまがいものだけに、肝心なときほど頼りにならないし、どんなに求め続けても満たされることがないからです。
だから、少しくらいハチャメチャで一貫性がなくてもいいから、ときには周りに迷惑をかけてもいいから、面白く生きたほうがいいですよ。いつも他人に迷惑をかけないことばかりを気にかけている大人は、自分の生を奪われたままに生きているのに、それに気づいていません。そんな人たちは、自分がせっかく我慢しているのにと、他人に当たり散らすことに終始しがちです。
社会に適応できないと、生きていけない。そんなことを言う大人は噓つきですよ。そんな大人の言う「社会」なんて、その人が見たせまい世界の断片でしかなくて、彼らはいまあなたが見ている世界を見ていません。自分を窮屈(きゅうくつ)な枠組みに閉じ込めることでしか生きることができない恨(うら)みを、子どもを通して晴らそうとしているんですから、そんな言葉に聞く耳を持たなくてよいのです。
※本連載に登場するエピソードは、事実関係を大幅に変更しております。