悩みの多い十代
十代というのは、人生の中でも特に悩みの多い時期だと思います。
なぜそんなに悩むのかといえば、たとえば、勉強しなさいという大人の要求や、規則を守れという社会の圧力が、自分の欲求に合わないと感じるからでしょう。
そして、教師や友人たちから軽んじられ、ぞんざいに扱われるような経験を通して、自分が他人から認められていないことを心細く思うからでしょう。自分という輪郭(りんかく)が少しずつはっきりしてきたにもかかわらず、それを十全に受け止めてくれる存在がなくて、この世界に自分の居場所がないと感じられるのです。
でも、その悩みはあなたが抵抗の拠点を持っていることを意味しています。悩む力こそがあなたを十全に生かす可能性を広げるものなのです。
あなたは無力じゃない
世の中にはあらゆる権力が交錯していて、その力を調整するのが政治のはたらきです。権力は国家や偉い人だけが持っているような特別なものではなく、身近な学校や家庭にもはっきりと存在しているものなのですが、教師や親などの大人がその権力を振りかざすときには、その表面が「正しさ」で覆(おお)われているために、子どもは何をされているかもわからないままに一方的な暴力を浴びてしまうことがあります。
でも、そんなときに、みんなはそれぞれに自分なりの抵抗を示してきたはずです。親に口ごたえして歯向かったり、教師の悪口を言ってみたり、今日は学校に行かないと部屋に閉じこもったり……。
抵抗というのは、必ずしも具体的な相手に対してやり返すことを意味しません。イヤだと思ったり、ダメだと思ったりすることがすでに抵抗ですし、もっと心身が追い詰められて、体が動かなくなったり、発熱して寝込んでしまったりすることだって全身全霊の抵抗のあり方です。
だから、あなたが気づくべきことは、自分自身が抵抗する力を持っているということです。たとえば、今日学校に行けない人がいるとして、それをいくら周りの大人たちが否定的に捉えていたとしても、それはあなたなりの抵抗であり、それ自体があなたの生きる力の現れなのです。
そのことを知らない人にとって、「あなたは弱いから」と周りに否定的な言葉を浴びせられることは、生きる力を否定されているのと同じことです。だから、いつのまにかその力を奪われ、どうしようもなく身動きが取れなくなってしまうことがあるのです。(いいですか。これは身に覚えのあるあなたに言っているのです。あなたは決してもともと無力だったわけではありません。そうでなくて、周りの大人たちがあなたを無力化し、あなたはそれを受け入れてしまったのです。)
「正しさ」への抵抗
大人たちは、良かれと思ってあなたにさまざまなアドバイスをしてくれます。でもその多くがむしろあなたを「正しさ」でがんじがらめにしてしまう言葉ばかりなんです。あなたに必要なのは、みんなとは違う自分独特の生き方を見つけることなのに、大人があなたに耳打ちするのは、どうすれば「普通」になれるか、みんなとうまく合わせられるかということばかりなんです。
こんなことを言うと、でも私には独創性がない。個性がたりないから、普通でいい。そういうふうに言う人がいます。私はいまの状態のままで安心していたい。そうやって、自分の人生が動くことを嫌う人が多いのです。
でも、この世界には初めから特別な個性や独創性が存在しているわけではありません。それは自(おの)ずと現れるのですから。
食器ひとつ洗うにしても、歯を磨くにしても、そのひとつひとつにあなたの生きる道が現れます。視界が悪い時には抜け道を探さなくてはならないし、人との関係の中で不整合があれば何とか辻褄(つじつま)を合わせなければいけません。
それらの個別的な営みがすでに抵抗なんです。「正しさ」の論理では決して追いつけない、個別への生きた対応こそが独創であり、それを地道に続けていくことだけが「正しさ」への抵抗になりえるのです。もしあなたがいま豊かな人生を望んでいるのであれば、それはその抵抗のずっと先に現れる独特の穏やかさのことを言うのでしょう。
そこにある抵抗を見抜くトレーニング
この連載では、いまの世の中のどこに抵抗のポイントがあるかを明らかにするとともに、自他の抵抗のありかに気づくことを主題に、あなたの身の回りにある話を書き連ねてきました。(ほんとうは抵抗のポイントを種明かしするなんて粋じゃないのですが、ジェントリフィケーションが進んだ「きれいな」社会においてはことごとくそのポイントが隠されてしまっているので、読者に真実を見るための赤いピル(映画「マトリックス」)を飲んでもらう必要があるのです。)
具体的には、あなたが抵抗のありかを見抜くためのトレーニングとして、身近な学校や家庭における権力の構造について解説しました。また、現代用語(「ワンチャン」「親ガチャ」「推し」など)や金融資本主義の中に隠された意味などのトピックを通して現代的課題を明らかにしました。そして、課題とはいってもそれが決して一方的に悪いということではなく、現実はもっと複雑なのだということを多くの言葉を割いて説明してきました。
ますます均一化する世界で
いまはとにかく「重い」ことや「わかりにくい」ことが敬遠されがちで、複雑な厚みを持つ人間よりも単純明快なキャラが求められるようになりました。そして、多様性(=ダイバーシティ)の旗印のもとで現実化したのは、多様な逸脱(いつだつ)を認める鷹揚(おうよう)さではなく、逸脱の全てを「普通」の中に包摂(=インクルージョン)することではじめからなかったことにしてしまおうという世界のクリーン化でした。
このことを通して、表面的なきれいさに覆われた、軽やかな社会の「正しさ」は、単に自分が周りとうまく歩調を合わせられているかどうかを確認するための平板なものになりました。
周りと歩調を合わせられていることを実感するのは安心のもとですよね。だから、親は一貫してあなたに「普通」であることを求めてきましたし、就職活動では皆が「正しい」身なりとしてのリクルートスーツで会社に向かうのです。こうして、うわべだけの多様性のもとで、世界の価値観はますます均一化の方向にひた走っています。
このような、皆が同じ方向を向いて進むあり方、さらに言えば、皆が我慢して同じ方向を向いて進んでいるときに、そこから逸脱する人間をよってたかって指弾(しだん)するような管理社会のあり方は、ほんとうに恐ろしいものです。私はこの連載をとおしてそのことを言い続けてきました。
亜美さん(第4回)や宗近くん(第6回)たちを追い詰めたのはまさにそれだし、そのことに疑問をもたないお前のせいなんだ、それにいいかげん気づけよ、うかうかしているとお前だっていつか奴らにやられるかもしれないんだと、叫び声を上げてきました。
複雑さを見抜き、それを武器にすること
その意味において、この連載は、「あなたはいつまでも純粋な子どもでいてほしい」というような子どもに対する大人の幻影を反映するようなものにはなりえませんでした。むしろ、個別的な状況の中で、その複雑さを見抜くこと、適切な政治力を身につけてそれを武器に生き抜くことを提案するものとなりました。この必然を少しでも読者と共有できればと思います。
これまで18回にわたる連載をお読みいただいた皆さん、ありがとうございました。皆さんからの生きた感想がこの連載を書き切る原動力となりました。「十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス」は、さらに加筆した上で年内にちくまプリマー新書の1冊として刊行される予定です。