ちくまプリマー新書

ひとりひとりが「エコな暮らし」をする意味はあるのか?…「環境倫理学」ではこう考える

『はじめて学ぶ環境倫理』より本文を一部公開

環境問題を解決するには新しい倫理観、すなわち「環境倫理」が求められている――では、環境倫理とはいったいなんなのか? 身近な環境の改変から地球の未来に関わる問題まで、考えるヒントが満載の『はじめて学ぶ環境倫理』(ちくまプリマー新書)の第一章を一部公開します。

「地球温暖化」が話題にされていなかった時代があった

 みなさんは、「地球温暖化」という言葉を当たり前のように聞いていることでしょう。以前、大学生に「関心のある環境問題」についてレポートを書いてもらったところ、一番多かったのが地球温暖化でした(気候変動問題の方が適切ですが、この本では地球温暖化で通します)。環境問題といえば地球温暖化だ、という認識が多くの人にあるのでしょう。

 しかし、このように環境問題といえば地球温暖化がイメージされるという現象は一九八八年から始まったものです。それ以前は、今のように地球温暖化が話題にのぼってはいませんでした(新聞記事を検索すると分かりますが、一九八七年以前は新聞紙上にほとんど登場していません)。これには理由があります。実は「地球は温暖化しており、それは人間活動に由来する温室効果ガス(CO2など)が原因だ」という話が広まったのは、一九八八年六月二三日のアメリカ上院の公聴会で、ジェームス・ハンセンという科学者がそう証言したことがきっかけなのです。それ以来、地球温暖化問題は、国際会議のテーマになり、一九九二年にはブラジルのリオデジャネイロで「地球サミット」が開かれ、マスコミでも大きく報道されました。「地球にやさしい」「エコな暮らし」「リサイクル」といった言葉が広まったのはこの時期からです。

 その当時のことを「環境ブーム」と呼ぶ人もいます。私は当時中学生・高校生でした。それ以前、私が小学生のころは、地球温暖化について話している人は周りに一人もいませんでした。このように言うからといって、地球温暖化は科学者によるでっちあげだ、と言いたいわけではありません。そうではなくて、地球温暖化はある時期に科学研究によって判明した問題だ、ということが言いたいのです。

 また、「地球にやさしい」「エコな暮らし」「リサイクル」という言葉が普及していなかったからといって、そのような活動をしていた人がいなかったわけでもありません。質素な暮らしをしていた人や、自然を守る活動をしていた人は昔から存在します。それを昔は「地球にやさしい」「エコな暮らし」「リサイクル」といった言葉で表現していなかっただけです。

地球にやさしくなるためには

 これまで、地球環境を守るためにさまざまな政策が立案されてきました。そのなかで、政府や企業が努力するだけでなく、一人一人が地球環境のために努力しなければならないという話が普通になされるようになりました。

 一九九〇年代から近年の「エシカル消費」に至るまで、地球環境に配慮した生活が求められ、エコな商品を選ぶことが推奨されていますが、たとえばジュースを飲むときに、缶、ビン、ペットボトル、紙パックのうちのどの容器の商品がエコなのかを判断するのは至難のワザです。ネット検索をしていたら、それぞれの容器の環境負荷を比較している「ロカボラボ」というウェブサイトを見つけました。大変参考になるサイトです。またそのサイトでは、どんな乗り物に乗るのがエコなのかを、飛行機、電車、自家用車、バスの環境負荷を比較して明らかにしています。

 しかし、ここで疑問が生じます。私たちはどれくらいこういった比較をし続けなければいけないのか。環境保護に気を遣って生活するのは苦しくないか。そして、自分だけが努力しても無駄ではないか。

 たとえばこんな話があります。最近ではマイボトルをもつ習慣が広まり、またエコバッグも普及しつつありますが、以前には、給茶器から紙コップを使わずにマイカップに飲み物を注ぐ、ということが「エコ」だと言われました。確かに給茶器の近くには大量の紙コップが使い捨てられていて、もったいない気がします。それで毎回マイカップを持って来てお茶を注いでいた人がいましたが、ふと次の人を見たら、次の人は備え付けの紙コップを二つ取り、二重にして使っていたという話です(熱いからでしょう)。それではマイカップを使っている人の努力が水の泡です。

 しかし、紙コップを二重にして使っている人に向かって「君の行為はエコではない」とお説教するのは面倒ですし、息苦しさを感じます。この問題を解決するにはどうすればよいでしょうか。有力な解答は、「紙コップを備え付けない」ということです。なければ使わない(みんなマイカップを持って来ざるを得ない)からです。しかし次の疑問がわきます。紙コップの節約分なんて些細なものではないか、もっと大きなところの無駄を省かないといけないのではないか。

 似たような例でいえば、個人住宅で電気を節約するのも大切ですが、もっと大きなところでたくさんの電力が浪費されている可能性があります。浪費をやめるのであれば、それらを止めるよう要求するほうが「エコ」になるでしょう。こういう疑問を持つようになることを、社会とつながった、社会が意識された、と言います。この例では、社会全体の電力の浪費に関心をもつことが実は環境倫理の目指す方向性なのです。

個人の倫理から社会の倫理へ

 環境倫理という言葉には、無駄な買い物をやめなさい、商品に対する欲望をおさえなさい、と個人の意識改革を求めるイメージがあるかもしれません。

 これに対して、物理学者の槌田敦は、「自動車に乗りたい」という欲望は、自動車でないと通勤できないという状況が生み出しているという例を挙げて、欲望には社会性があると主張し、そのような社会的欲望を個人の努力で抑えるのは不可能であると述べています。そして社会的欲望によって引き起こされた問題は社会の倫理によって解決する(毒物に税をかけるなど)しかないと主張します。ここでは個人の倫理と社会の倫理が区別されています。そして環境倫理は禁欲や自己犠牲といった個人倫理よりも、法や経済といった社会制度の改善に目を向けるものなのです。

関連書籍