感情に補強された不安定なつながり
しかし、感情に補強されたつながりは、それほど強いものにはなりません。私たちは、相手とのつながりを「よい」と思えば関係を継続させるし、「悪い」と思えば関係から退くこともできます。この特性のおかげで、私たちは、無理して人と付き合わなくてもよい気楽さを手にしました。理不尽な要求や差別的な待遇から逃れやすくなったのです。しかし、人と無理に付き合わなくてもよい気楽さは、つながりから切り離される不安も連れてきてしまいました。
お互いに「よい」と思うことで続いていくつながりは、どちらか、または、両方が「悪い」と思えば解消されるリスクがあります。放っておいても行き来がある長屋の住人とは違うのです。このような状況で関係を継続させるには、お互いに「よい」状況を更新してゆかねばなりません。つまり、つながりのなかに「よい」感情を注ぎ続けねばならないのです。
この特性は、その人にとって大事なつながりであればあるほど強く発揮されます。私たちは、大事なつながりほど「手放したくない」と考えます。しかし、あるつながりを手放さないためには、相手の感情を「よい」ままで維持しなければなりません。大事な相手とつながり続けるためには、関係からマイナスの要素を徹底して排除する必要があるのです。
とはいえ、個々人の心理に規定される「よい」状況は、社会に共有される規範ほどには安定していません。社会のルールはなかなか変わりませんが、個人の感情は日によって変わることもあります。何かの拍子に、ふと、「悪い」に転じてしまうこともあるのです。つまり、人と無理に付き合わなくても良いつながりは、ふとしたことで解消されてしまう不安定なつながりとも言えるのです。
かといって、目の前のつながりを安定させる最適解は、そう簡単に見つかりません。人の心を覗くことはできませんから。
コミュニケーションの指南書が書店に並び、「コミュ力」や「コミュ障」といった俗語が流布する現状は、コミュニケーションにまつわる人びとの不安を物語っています。私たちは、人間関係を円滑に進めてゆく行動様式がはっきり見えないまま、相手の心理に配慮しつつ、コミュニケーションを行う厄介な状況にさらされているのです。
「人それぞれ」と解釈することで対立を回避
この厄介な状況に対処するにあたって重宝されてきたのが、「人それぞれ」を前提としたコミュニケーションです。私たちは、たとえ相手の見解が、自身の見解と異なっていたとしても、「人それぞれ」と解釈することで、対立を回避することができます。あるいは、相手の行動が自身にとって理解できないものであっても、「人それぞれ」とすることで、問題化することを避けられます。
たとえば、この章の冒頭にあげたやりとりを振り返ってみましょう。ここで、「一人のほうがラク」と語る友人に対して、「一人でいるなんて寂しくない!? 結婚した方がいいよ」と答えるのは、あまり望ましくありません。というのも、結婚を勧める言葉は、「一人でいる」という友人の決断を損なう可能性があるからです。友人の決断を損なう行為は、相手の意思の尊重という意味ではあまり望ましくありません。かといって、慰めるのも、友人を下に見ているように思われる可能性があります。こうしたときに、「人それぞれ」と無難に収めておけば、とりあえず波風は立ちません。
ふたつ目の例は、率直に考えを述べる難しさを表しています。個の尊重を前提とした「人それぞれの社会」では、相手を否定しないことに加え、自らの考えを押しつけないことも求められます。それぞれの意思を尊重する社会では、意見を押しつけず、それぞれの考え方を緩やかに認めることが肝要なのです。
このような環境では、たとえ、自身はオンラインを制限した方がよいと思っていたとしても、それを表明すると、考えの押しつけになってしまいます。「人それぞれ」のコミュニケーションは、このようなときにも重宝されます。というのも、「人それぞれ」という言葉を使っておけば、自らの立ち位置を守りつつ、相手の意思を尊重することも可能だからです。
不安定なつながりのなかを生きる私たちは、「人それぞれ」という言葉を使って、お互いの意見のぶつかり合いを避けています。このようななかで率直に意見を交わし、議論を深めるのは、そう簡単ではありません。