ちくまプリマー新書

やさしく、冷たい人間関係…「人それぞれ」のなかで遠のいていく本音

『「人それぞれ」がさみしい』より本文を一部公開

「他人と深い関係を築けなくなった」と感じる人が増えています。「人それぞれ」という言葉が象徴する相手との距離をとろうとする人間関係のありかたや、「人それぞれ」の社会に隠れた息苦しさ――『「人それぞれ」がさみしい』(ちくまプリマー新書)が刊行されました。この記事では本書の内容を一部お届けします。本音で意見を交わすことも、ぶつかり合うことも難しい現代の背景にあるものとは?

ある会話から

 おしゃれなカフェでふたりの女性が話しています。友だちどうしでしょうか。

「わたし、このまま結婚しないでいようと思うんだ」

「ふ〜ん、どうして」

「なんだか結婚って息苦しいし、このまま一人のほうがラクだなって……」

「そっか〜、ま、人それぞれだもんねぇ」

 次に、とある大学の授業を覗いてみましょう。どうやら討論形式の授業をしているようです。

「今日のテーマは『私たちはオンラインの環境を制限した方がよいのか』です。グループに分かれて、一〇分くらい議論してください」

 教員の掛け声とともに、学生が気だるそうに移動する。

「オンラインの制限だってよ。どうする?」

「どうしよっか」

「強制とか制限っていうより、人それぞれでよくね?」

「そうだよなぁ……」

 皆さんも誰かと話しているときに、つい「人それぞれ」と言ってしまうことはありませんか。ここにあげたような会話は、こんにち、いたるところで見られます。この章では、あるていど顔を見知った関係のなかで展開される「人それぞれ」のコミュニケーションに注目していきます。

無理して人と付き合わなくてよい気楽さ

「一人」になれる条件が整い、人びとの選択や決定が尊重されるようになった社会では、さまざまな物事を「やらない」で済ませられるようになります。ある行為を「やらねばならない」と迫る社会の規範は緩くなり、何かを「やる」「やらない」の判断は、個々人にゆだねられます。

 この傾向は人間関係にも当てはまります。私たちが生きる時代は、閉鎖的な集団に同化・埋没することで生活が維持されてきたムラ社会の時代と違います。生活の維持は、身近な人間関係のなかにではなく、お金を使って得られる商品やサービスと、行政の社会保障にゆだねられるようになったのです。

 このような社会では、誰かと「付き合わなければならない」と強制される機会が、徐々に減っていきます。会社やクラスの懇親会への参加はもはや強制される時代ではありません。地域の自治会への加入も任意性が強くなりました。趣味のサークルを続けるか続けないかは、まさに「人それぞれ」でしょう。

 誰と付き合うか、あるいは、付き合わないかは、個々人の判断にゆだねられています。俗っぽく言えば、私たちは、(嫌な)人と無理に付き合わなくてもよい気楽さを手に入れたのです。

 今や、人と人を結びつける材料を、生活維持の必要性に見出すことは難しくなりました。人と人を結びつける接着剤は、着実に弱くなっているのです。

つながりに注ぎ込む「感情」

 では、このような社会で、つながりを維持するにはどうすればよいのでしょうか。生活維持の必要性という、人と人を強固に結びつけてきた接着剤は弱まっています。そうであるならば、私たちは、目の前の関係をつなぎ止める接着剤を新たに用意しなければなりません。そこで私たちは、弱まってきた関係をつなぎ止める新たな補強剤として、つながりに大量の「感情」を注ぎ込むようになりました。

 このような傾向は、メディアからも読み取ることができます。日本映画界の巨匠、小津安二郎監督の作品に、『長屋紳士録』という短い映画があります。この映画は、終戦から二年後の一九四七年に公開されました。当時は、東京下町を舞台にした人情劇と評価されています。簡単にあらすじを紹介しましょう。

 おもな登場人物は、長屋の住人と少年です。物語は、長屋に住む女性のところに、実の親とはぐれてしまった子どもが届けられるところから始まります。そのさい、長屋のその他の住人とひと悶着あるのですが、結局、女性が少年の面倒を見ることになります。

 最初は子どもの世話を嫌がっていた女性も、だんだんと情が移り、子どもをかわいらしく思ってきます。しかし、その矢先に、子どもを探していた実の親が登場し、女性と子どもの間に別れが訪れます。子どもが去った後、女性はあらためて親子のつながりのよさに気づく、というのが大まかなあらすじです。

 長屋の住人は、鍵もかけず、お互いの家にしょっちゅう行き来をし、何かにつけ雑談をします。親子のつながりや、長屋の住人どうしの密接な交流。こういった言葉からは、「昔ながらの温かなつながり」を想像することができます。

 しかし、今の人びとが見ると、この映画に対してかなりの違和感を抱くでしょう。その理由は、登場する人びとの感情的な交流の少なさにあります。

 人情劇であるこの映画のなかで、スキンシップと言いうる場面は、少年が女性の肩をたたくシーン以外、いっさいありません。感情的な交流の少なさは、実の親と子どもの再会のシーンに集約されます。

 物語のクライマックスである親子の再会、および、少年と女性との別れは、現在の感覚からすると、さぞ感動的に演出されるのではないかと思います。しかし、『長屋紳士録』において、そのような表現はまったくありません。

 再開を果たした親子は、互いに駆け寄ることも、抱き合うこともありません。それどころか親は、近寄る子どもを手で押しのけ、女性にお詫びと御礼の挨拶をすることを優先させます。つまり、儀礼を優先しているわけです。

 子どもと女性の別れのシーンでも、涙や抱擁はいっさい見られません。少年が「オバチャンサヨナラ」とぶっきらぼうに述べ、別れのシーンは終わります。ここから、「人情劇」と言われた映画でさえも、感情表現は非常に乏しいことがわかります。

 この映画を見た学生は、「昔のつながりは濃密だけど感情や気遣いが薄く、今のつながりは希薄だけど、感情や気遣いが濃い」と述べていました。この言葉は、感情に満たされた今の人間関係をよく表しています。

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