筑摩選書

横浜中華街への「知的空腹」を満たす
山下清海『横浜中華街』書評

山下清海『横浜中華街』(筑摩選書)について、ジャーナリストの野嶋剛さんによる書評を掲載します。横浜中華街の歴史や魅力をまとめた本書を、華語圏が専門の野嶋さんならではの視点で読みときます。ぜひお読みください。(PR誌「ちくま」2022年1月号より転載)

 私は横浜育ちで、高校時代、中華街の店で皿洗いのアルバイトをしていた。そのお店を経営する台湾人の娘さんが中国語教師をしていて、中国語に興味があった私は個人レッスンを受けることにして、アルバイト代でレッスン料を払った。そのおかげで、大学の第二外国語で学ぶ中国語を物足りなく感じ、香港や台湾に留学した。そのおかげでジャーナリズムの世界に入って中国語を使った取材をするようになり、かれこれもう30年になる。私にとって横浜中華街は人生を切り開いてくれた恩人のようなものである。

 横浜中華街を歩くたびに感じていた疑問が一つある。路地裏の豊かさだ。「華正樓」や「聘珍樓」、「同發」などが立ち並ぶメーンストリートから左右に広がる入り組んだ路地裏に中小の店々が軒を連ねる。「中華街で美味しいものを食べたかったらまず路地裏に行け」と言う人もいる。「海員閣」のように行列必至の店も路地裏には多い。

 個人的な印象だが、日本三大中華街の残りの二つ、神戸南京町や長崎新地は、路地裏の店はそれほど多くはなく、大通りに雑貨店があり、貿易商の店があり、中華料理店がある街並みだ。しかし、横浜中華街はほぼレストラン一色に近く、路地裏への広がりもある。なぜこの違いがあるのか、漠然とした疑問を感じていた。

 本書は、その疑問を解くヒントを与えてくれた。横浜中華街は、戦後は闇市、そして外国人バーの集まる風俗地区として成長し、やがて中華料理店が次第に増えていき、他の業種の店に取って代わっていった経緯がある、という。同じような街の成長過程をたどった新宿三丁目あたりと中華街の路地裏の姿がどこか似ているのは、偶然ではないのかもしれない。

 チャイナタウン研究の第一人者で、学生時代から横浜中華街に通い続けた山下氏はフィールドワークと史料を駆使し、巧みに、軽やかに横浜中華街の秘密を解き明かしていく。本書によれば、世界にはおよそ100のチャイナタウンがあり、うち70あまりを踏破したという。長年のチャイナタウン理解のために重ねた努力の厚みが、本書にはたっぷり注ぎ込まれている。

 中華街についての「知的空腹」を満たす内容で、その読み応えは、大量の具材を長時間煮込んだ末の味わいを楽しむスープ料理「佛跳牆」を想起させる。

 チャイナタウンは世界に散在する。人間の生命力が街を作り、各地に牌楼を立ち上げ、得意とする三把刀(料理、理容、裁縫)の仕事からその土地に根を張っていく。どこでも華僑たちのやることは同じである。だが、街の姿は別だ。山下氏は、それぞれのチャイナタウンに「固有のローカル性がある」と指摘する。では、横浜中華街の特性はどこにあるのか。その一つは、やはり中台関係の政治対立が先鋭に展開された点だろう。

 1949年、国共内戦の末に台湾に移った国民党と、中国大陸を支配した共産党の対立・分断構図は横浜中華街にもそっくり持ち込まれた。襲撃事件などの抗争が多発し、居住者の子供たちが学ぶ中華学校も、大陸派と台湾派に分かれた。山下氏が若い頃のフィールドワークで「あなたは大陸派か台湾派か」とインタビュー相手に迫られ、立ち往生したエピソードがその対立の鋭さを表している。

 10月1日の中国の建国記念日と、10月10日の台湾の建国記念日で、どちらの国旗が中華料理店などで数多く掲揚されているかを山下氏は調査している。そんな丁寧なチャイナタウン観察ぶりを読み、冷戦下で国際スパイが暗躍した香港で日本領事館に勤務していた当時警察官僚で後に作家となる佐々淳行氏が、建国記念日に中国・台湾の旗を数えて香港での勢力バランスを調べていたことを思い出した。

 横浜中華街は1980年代以降のグルメブームで急成長を遂げ、大陸派、台湾派の双方が加入する「横浜中華街発展会」がマップの作成や牌楼の整備に取り組み、古い対立構図を乗り越える姿が本書では示される。住民たちの世代交代も進み、新華僑の流入も増え、政治意識も変わりつつある。現実の中台対立はなお厳しい局面にあるが、「中華街には台湾海峡はない」という山下氏の願いが、横浜中華街でようやく実を結ぼうとしている。