冷やかな頭と熱した舌

第4回 
文春砲とは何なのか?――映画「FAKE」(ネタバレあり)からひもといてみた【前編】

全国から注目を集める岩手県盛岡市のこだわり書店、さわや書店で数々のベストセラーを店頭から作り出す書店員、松本大介氏が日々の書店業務を通して見えてくる“今”を読み解く!
◆さわや書店ホームページ開設されました! 
http://books-sawaya.co.jp/
◆さわや書店フェザン店ツイッター 
https://twitter.com/SAWAYA_fezan

 

さわや書店での「週刊文春」の売れ行き

 文藝春秋が発行する「週刊文春」の勢いが止まらない。
 最近では「文春砲」なんていう言葉も定着した。「週刊文春」がスクープ対象とした人物を、徹底的に砲撃して撃墜する様子を表した造語だという。
 日本雑誌協会(雑協)によると2016年1月~3月の「週刊文春」の発行部数は約65万部。ライバル紙の「週刊新潮」が約50万部である。さわや書店フェザン店の入荷数では「週刊文春」が3倍も多いから、前記の雑協の数字からすれば「週刊新潮」は、むしろ健闘しているほうだとも思える。駅ビルにある本屋なので、新幹線の車内で読むための需要などから週刊誌が売れるほうだと思うが、ここ数年の販売数はやはり下降気味だ。そのなかで一人気を吐く存在が「週刊文春」なのである。
 現在の「週刊文春」の快進撃を支える屋台骨は、編集長の新谷学氏である。氏は地下鉄サリン事件があった1995年に「週刊文春」の記者に配属された。それまでは文藝春秋の発行する他の雑誌で編集をしていたという。週刊誌の記者という仕事は出版界にあって特別なものであると、出版社に勤める人々は口をそろえる。

書店員が接する出版社の営業マン、編集者、記者

 書店で働く僕が接する出版社の人間は、商品化された、もしくはこれから商品化される雑誌や本の情報をもたらしてくれる営業の方が主だ。近年は、読者に近い「売り場」の声を製作現場にフィードバックしようと、小説の編集者が書店員と直接やり取りする機会も増えた。これはどこの業界でも行われている、いわゆる「マーケティング」というやつだが、書店とのやり取りは創作に生かすことを目的とする。物語を生み出す作者と、進むべき道をコーチングする編集者。並走しながらも役割は異なる。そこに物語の全体を、「他者の眼」を取り入れることで、より立体的にしようという思惑がある。
 一方、記者は事実を積み重ねることで、文脈を組み立てなければならない。ごくたまに記者を経験したと話す出版社の人間とやり取りするが、体力と気力の限界を超えてからが本当の勝負だと遠い目をしながら話していた。仕事が終わる目途が立たないことが何よりもつらく、家庭を犠牲にすることもしばしば。それに加え、情報が漏洩することを懸念して、家族にさえもどこで何をしているかということを詳しく話せないという。「ちょっと取材に行ってくる」と言い残して、1週間家に帰らないということもざらのようだ。

2012年、「週刊文春」の快進撃の始まり?!

 雑誌編集から「週刊文春」に配属が変わり、新谷氏もいままでの「自分の常識」と「記者の常識」のズレに戸惑ったことだろう。記者はネタ元を育て、情報を得るために人の口を割らすことを常とする。ネタ元を信じ、ウラを取って記事にしたとしても、ガセネタの可能性はゼロではない。人を信じることから全てをはじめ、疑うことを生業とする。なんと特殊な職業だろう。
 雑誌の編集長とは、編集者と記者、その両方のスキルを有した言わば「超人」である。17年もの長きにわたり「週刊文春」の記者として第一線にいた新谷氏は、2012年4月に編集長に就任する。そのわずか2か月後の6月には「小沢一郎 妻からの『離縁状』」、「巨人原監督(当時)が元暴力団員に1億円払っていた!」などのスクープ記事を連発した。
 岩手では特に、小沢氏の号の反響はすごかった。すぐに売り切れてしまったため、週刊誌では異例ともいえる追加注文をしたが、その追加分すらも完売したのだった。
このように船出は上々だったが、しかし「超人」新谷氏も順風満帆だったわけではない。

2015年、不可解な編集長の謹慎騒動

 2015年の10月から12月の3か月間、新谷氏は社から謹慎を命ぜられる。発表を鵜呑みにするなら「春画」を「週刊文春」に載せたことについて、編集上の配慮を欠いたことが理由だという。美術作品である春画を載せることを、文藝春秋の上層部の美意識がよしとしなかったのだろうか。しかし、どうやら事はそう単純ではない。この号(2015年10月8日号)の電車の中吊りについて、クレームが入ったのだという。中吊りの該当部分は黒く塗りつぶされて掲示された(新谷学編集長のブログより)。
 そこで「zassi.net」というサイトで「週刊文春」の中吊り一覧から、件の中吊りを遡って探してみたところ、結果は拍子抜けと言えるものだった。中央右下の目立たない箇所に掲載されたその春画の広告は、全体の面積の割合で言うと5パーセント程度のもので、よほど目を凝らさないと電車内で目にしてもほとんど印象に残らないだろう。
 とはいえ、広告主あっての雑誌であるので、甘んじて罰を受け入れた新谷氏であったが、復帰後の2016年1月から攻勢をかける。

そして、文春砲が降り注ぐ2016年

 「センテンススプリング」という、異名を生み出したベッキ―の不倫騒動にはじまり、ショーンK氏の経歴詐称、甘利大臣(当時)の現金授受疑惑、巨人軍の現役選手(当時)の野球賭博、鳥越氏の女性問題と、今年に入って出るわ出るわ。スクープの砲弾が降り注ぎ続けた。
 しかし、これら前述したなかで毛色が異なるのは、甘利大臣(当時)の疑惑をすっぱ抜き、特ダネをモノにした取材方法ではないだろうか。ネタ元である一色武氏と協力して行い、現金の授受の一部始終を撮影、録音して記事にした。この手法は露骨に罠に嵌めてやろうという意図が透けて見える。
 何故か。
 その謎を解くカギは甘利大臣(当時)が金銭を授受し、口利きをした組織UR(都市再生機構)にある。URは政府系組織という圧倒的な立場を利用して、開発業務を行っており、幹部の多くは国土交通省などからのいわゆる天下りで占められている。先の新谷氏の謹慎は、一部鉄道会社から電車内の中吊り広告に対してクレームが入ったことに端を発するということを併せて考えると、水面下での管轄官庁と「週刊文春」のバトルがあるとの推測は成り立たないだろうか。どちらが先なのかは知る由もないが、「週刊文春」に圧を強めてきた権力に対し、手法はともかくとしてやり返したのではないかと、僕は想像する。下世話なスクープで注目を集める一方で、権力に対しても物怖じせずに戦う姿勢を貫く「文春力」は、他誌が無くしてしまったものかも知れない。

映画「FAKE」から感じた残酷さ

 そんななか、映画「FAKE」を観た。
 佐村河内守氏の「ゴーストライター問題」をすっぱ抜いたのも「週刊文春」であった。耳に障害を持ちながら作曲をし、「現代のベートーベン」として交響曲を作り上げたことでメディアにもてはやされた彼は、ゴーストライターであった新垣隆氏の突然の記者会見によって、一転してバッシングの矢面に立たされることになった。
 目と耳の障害についても疑惑の目を向けられた佐村河内氏は退路を断たれ、弁明しようと開いた会見に姿を現した彼の風貌は、我々が知るものではなかった。髪は短く切り揃えられ、光が目に入ると症状が悪化するとの理由でかけていたサングラスも外されていたのだ。彼なりの誠意の表れとも思えたが、カメラの強いフラッシュにさらされてもまぶしいそぶりは見せず、その挙措は堂々としており、受け答えに開き直った様子が垣間見えたことで反感を買ってしまう。その日を境に、世論は新垣氏への同情論へと一気に傾いていった。

 この映画を撮影したのは森達也監督。2014年から1年半にも及ぶ撮影期間を費やし、一本の映画として成立する着地点を探り当てて「FAKE」は完成した。正直に言って、僕はこの映画を観るまで、佐村河内氏の事件は記憶の端へと追いやられていた。
 風化しつつあったこの事件に別の角度から光を照射させ、新たな解釈を付与したというのが本映画の肝の部分であろうが、この映画に森氏が込めた真意とは何だろうか。未鑑賞の人もいるだろうから詳しくは書かないが、ラストは観る者によって色がそれぞれ変化するような「玉虫色」の決着を迎えるとだけ言っておく。そしてその「玉虫色」の決着に関して、観た者は否応なくある種の「判断」を迫られることになるだろう。そういった「判断」を迫られるという意味において僕は、日常生活ではなかなか経験できない残酷さをこの映画に感じた。【後編へ続く】

関連書籍