冷やかな頭と熱した舌

第11回 
思考の整理学の話【後編】―10年ぶりの邂逅

全国から注目を集める岩手県盛岡市のこだわり書店、さわや書店で数々のベストセラーを店頭から作り出す書店員、松本大介氏が日々の書店業務を通して見えてくる“今”を読み解く!

◆さわや書店ホームページ開設されました! http://books-sawaya.co.jp/
◆さわや書店フェザン店ツイッター 
https://twitter.com/SAWAYA_fezan

 

本屋のマスコミ対応への難しさ

 あのヒットからおよそ10年。力をつける日々は苦悩の連続だった。現在さわや書店フェザン店に勤務する僕は、ベストセラーの階段を駆け上る「ある本」が醸す喧騒のなかにいる。とはいえ、仕掛け人は僕ではない。第6回「文庫X狂想曲」で触れた長江貴士くんがその渦中にいる。新しい力が台頭しない組織は必ず滅びるというが、さわや書店はなんとか次にタスキを渡すことができそうである。

 この前、一緒に飲みに行った長江くんから「天狗にならないようにしているんですよ」という言葉を聞いた。ひょうひょうとしている長江くんでも、今回の文庫X騒動には思うところがあるようで、同じような質問に答えること20回以上……。連日の取材に若干お疲れぎみである。それはそうだろう。マスコミの人たちは話題や流行を追って、視聴者へと情報を届けるという使命感から取材対象へ協力を強いる。10年前に僕も経験したことだ。
 彼らは、その使命感をたてに僕たちの日常に入り込み、非日常的な理屈を持ち込んで、とにかく自分たちの筋書きに当てはめようとすることが多々ある。分かりやすくいうと、彼らの欲しいコメントや結論は取材の前に決まっていて、そこに誘導されているような感じがするのだ。「決められた取材時間内に」という理屈も分かるし、もちろん常にそうだとは言わない。だけど、僕らの日常に対する配慮に欠けているのではと、苦々しく感じることもしばしばだ。それって本当に正確に伝えようとしているのか、と。

「ツイッターで話題の」と伝えるテレビの不思議

 放送後の店頭に、反響と消費の促進をもたらす代わりに、彼らは通常の仕事に充てる時間を奪ってゆく。今回そのことを再確認した。長江くんは通常業務に充てる時間の多くを、「文庫X」の取材対応で削られていた。しかし、ツイッターなどの口コミの増幅装置であるSNSがあるいまでも、テレビなどの力は大きいので無視できない。事実、「文庫X」も最初に火がついたのはツイッターだったが、テレビで紹介された翌日は売れ数が3倍に跳ねた。

さわや書店フェザン店のみで販売数5000冊目前の「文庫X」

 視聴者として以前から、テレビで「ツイッターで話題の」という紹介のされ方を見るたびに、敵に塩を送った上杉謙信の逆パターンだなと思っていた。苦しい立場にある方が、なけなしの塩を送っているように思えてしまうのだ。昨今のエンタメに関わるビジネスは、余暇の奪い合いだと言われている。テレビをみる時間をネットに奪われているのに、「ツイッターで話題の」とやるのは、何かメリットがあるのだろうか。そして、その言葉はすぐに自分へと返ってくる。
 ネットで書評を書かせてもらっている自分が、そこで紹介した本を、どれだけの人が「本屋」で買ってくれているのだろうかと。ネットの書評で話題になると、ネット書店で当該本のランキングがあがる。物理的に遠くにいる人へいい本の紹介をしたいという強い気持ちがある一方で、敵に塩を送っているのではないかと胸中は複雑である。全体を俯瞰する瞬間的な一つの指標としては、ネット書店のランキングはとても便利だとは思うのだが。
 とまれメディアに露出すれば注目もされる。本来の目的である「本を売るため」に働く自分というアイデンティティが薄れてゆく感覚。自分が取り上げられることで本が売れるという錯覚が、ひいては自分が取り上げられるために本を売る、と変化してしまってはならないと、長江くんはよくわかっているのだ。いるからね、そういう人。うんうん。
 しかし一方で、自分の名が売れることでもたらされる「効用」も僕は知っている。『思考の整理学』がベストセラーになったことによって、もたらされた「効用」は主に三つあった。

名前が売れることの“効用”

 一つ目は、情報がより早く、より多く手に入れやすくなったこと。出版社から発売前に意見を参考にしたいと、ゲラやプルーフと呼ばれる見本が届くようになった。影響力があると認められると、どこかのメディアで取り上げてくれるかもしれない、店で力を入れて売ってくれるかもしれないとの期待から、編集者が送ってくれるようになったのだ。
 二つ目は、出版社とのやり取りがしやすくなったこと。売れている本も店になくては売り上げとならず、お金に変わらない。必要と思う本を必要な冊数だけ仕入れることができたら、店の経営は安定する。刷り部数が限られている「本」は他の書店との奪い合いという側面がある。その数は過去実績で決められることがほとんどだが、信頼関係がものを言うことも多い。
 例えば、無名の新人の本を僕が「売れる」と判断したとして、出版社に連絡を取ったが商品が市場に出てしまっていて在庫がないという場合。その時、僕なら他の書店から出版社に戻ってくる「返品」を、その都度もらえるように手配をお願いする。それをいわゆる卸業者である取次にお願いすることもある。つまり定置網漁のように魚が通過する場所に仕掛けを施すのだ。
 出版社の営業担当者は何年かのサイクルで変わるが、情報は次の担当者へと引き継がれる。名が売れることで、関係が浅くとも「松本さんが売ると言っているなら」と、融通してくれる営業担当者がいることは強みだ。
 三つ目は人脈の広がりである。当たり前のようだが、これが一番大きかった。人と人が出会う時、相手に覚えてもらうのはなかなか難しい。手っ取り早いのは会う回数を重ねることだが、岩手県にいる僕は首都圏を訪れる機会も限られている。名前や顔のほかに相手の印象に残る要素として、「ああ、あの『思考の整理学』の仕掛け人の!」というのは、なかなかに強烈だった。外山先生の威光を背に、多くの方々と関係を築かせてもらった。それは働くうえでいまも僕の一番の財産となっている。

10年ぶりの『思考の整理学』再読

 前回の冒頭に記した描写、NHKからの電話は取材の依頼だった。詳しく話を聞いたところ、『思考の整理学』が200万部を突破したという結果を受けて、著者である外山滋比古先生と、その志を継いで京都大学で教鞭を執る瀧本哲史さんに今年の春先から密着取材をしているという。『思考の整理学』の仕掛け人として、そのことについてどう思うかと訊かれたとき、頭にあったのは今度のおがっちさんの読書会(→第9回「盛岡で100回続く読書会」参照)で取り上げる『思考の整理学』のことだった。読書会の存在を電話で告げると、その様子をぜひ取材・撮影させて欲しいと打診された。おがっちさんとの間をとりもちつつ、僕も撮影の場にぜひ顔を出したいと申し出ると「もちろんです」と快諾してくれた。これも前述した「効用」がもたらした出会いである。

 読書会当日。
 あいにくの雨のなか早めに会場へと入り、読書会に参加する人々の顔ぶれをみる。事前に募集した25名の定員にすぐに達したことはおがっちさんから聴いていた。しかし、天候も天候なので出席率が気になり、わがことのようにそわそわと落ち着かない。結果、心配は杞憂に終わり、NHKの撮影隊4名が到着する頃には7割がたの参加者がすでに到着し、一人の欠席者も出ることなく会は始まった。参加者は四つのテーブルに分かれて着席し、それぞれ持ち時間の3分間で『思考の整理学』を読んで気づいた点、疑問に思った箇所、自分流の解釈などを挙げる。3分の持ち時間が終了すると、今度はテーブル全員でもう3分間その人の考えを掘り下げるということを繰り返すという形式。

普遍性と不変性

 出版から30年の時を経て、熱い議論が交わされる。その傍らで僕は驚いていた。ほぼ10年ぶりに本書を読み返してみて僕も思ったのだが、その普遍性と不変性とを皆一様に口にするのだった。出版から30年を経て、世の中を見まわせば劇的に変化した事や物だらけだが、この本は変わらない。色褪せていない。物事の本質を捉えるとはこういうことなのだと感じ入った。通常一人で完結する読書という行為が、同様の体験を経た複数人と議論することで確認し合えるという不思議な感覚だった。NHKのディレクターさんも、読書会の様子を撮影するカメラマンの傍らで「レベル高いですね」と驚いていた。

『思考の整理学』に付けられた歴代の帯。松本さんのコピーが入ったものが多数。

 撮影も終わり、おがっちさんから事前に聞かされていた「仕掛け人・松本大介へのインタビュー」が始まる。話しながら、どこか客観的に語る自分を感じていた。過去の成功事例と決別するために多くの時間を要したが、自縄自縛から解放されたような気分に心は晴ればれとしていた。10年の日々で、少しは力がついたのかも知れない。いや、少しも力がついてないとなればそれはそれで問題なのだが。おがっちさんにお礼を言って、会場を辞去する。雨が少し弱くなっている気がした。

ネットから”塩”が返ってくるテレビ

 放送当日は遅番で、夜9時半ごろまでの勤務だったためにリアルタイムでは見られなかったが、翌日録画した番組を見た。まず外山先生がお元気そうだったことが何より嬉しかった。放送終了後、某ネット書店で『思考の整理学』の売れ行きは、一時は総合ランキング1位まで順位が上がったらしい。ツイッターのタイムラインを遡ってチェックしてみて、「懐かしい」「大学受験で問題に出た」「もう一度読み返してみる」というツイートが散見され、嬉しく思った。現実に起こった事象があって、それがテレビで取り上げられ、ツイッターで話題となる。そうか、テレビが先でネットにおいて口コミが広がるという逆パターンの相乗効果もあるのかと、いまさらながらに気づく。送った塩って返ってくるんですね。

現在もさわや書店フェザン店では「文庫X」ともに並ぶ『思考の整理学』

  発売から23年を経て100万部を突破したことは当時も驚かれたが、それから7年を経てもう100万部を積み上げたこと、長く読み継がれる作品であり続けていることが何より嬉しい。そのきっかけを作れたことを、今なら胸を張ってよかったと言える気がする。
 当時を振り返ってみて、営業担当だったKさんも僕も、この本に救われたのだろうと、感謝の気持ちが込み上げたことを記しておきたい。訳も分からずがむしゃらな20代に、色々な追い風が重なり二人で作り上げた『思考の整理学』の大ヒット。そしてその大ヒットによってもたらされた劇的な環境の変化。自分の実力よりはるか高く設定されたハードルを超えられないことが悔しくて、いつか超えてやるとそれぞれに奮闘した。営業で結果を出したことで、周囲に望まれる形で編集へと抜擢されたKさんは、慣れない環境と期待とで苦労を重ねた。
 そして今、彼は僕に「それぞれ溜めた力を持ち寄って、二人の30代の記念の仕事にしよう」とこの連載の話をくれた。10年前の、あのハードルを一緒に超えようぜと。

本屋の使命

 『思考の整理学』が取り持ってくれたたくさんの縁を感じれば感じるほど、僕はやはり「本屋」が存在している未来を残さなければと思う。人と人との接点がなければ生み出されなかった事例を、16年にわたって数々目撃してきた。これは本にまつわる現場にいなければ経験しえなかったことだ。現場以外の人にはきっと分からない。しかし現状、ネット書店と「本屋」があって、本を売る窓口は広がったはずなのに本が売れない。本そのものの魅力が失われたのかというと、そうではないと僕は思う。
 接点の場である「本屋」の数が減少したからだ。その一点に尽きる。本への愛情を持つ人と人がぶつかった時にもたらされる熱量は、残念ながらネット書店を介しては生まれない。『思考の整理学』を例に考えてみると、僕らは偶然にせよ単純計算でも200万人へと何らかの影響を与えた。読んだ人が社会にもたらした影響はそれ以上であろう。もし『思考の整理学』がヒットしていない社会があるとして、その世界と比べたらどうだろうと想像を巡らす。
 想像した時に思うのだ。本屋が無くなることで得られなくなる「形のない何か」はきっとある。そのためには、本屋から生まれる社会現象を絶やさないことが僕ら本屋の使命なのかもしれないと。

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