ちくま新書

本当の「愛国」の話をしよう
――『愛国の起源――パトリオティズムはなぜ保守思想となったのか』はじめに

いま、世界を「愛国」思想が席巻している。「愛国」思想は、右派や保守の政治的立場と結びつけられがちだが、その起源は、古代ローマの哲学者キケロが提唱したパトリオティズムにあった。フランス革命では反体制側が奉じたこの思想は、いかにして伝統を重んじ国を愛する現在の形となったのか。ちくま新書6月刊『愛国の起源』の「はじめに」を公開します。

「愛国」のイメージ
 みなさんは、「愛国」や「愛国心」という言葉にどのようなイメージを持っていますか?
 日本の美しい四季や自然への愛着でしょうか。あるいは、日本のスポーツ選手が世界大会で活躍するのを応援することでしょうか。
 人によっては、日本の優れたものづくりの伝統や、独自の歴史や文化を誇りに思うことだ、と考えるかもしれません。さらに、そのような意味で国を愛することは当然だと思う人が多いでしょう。
 しかし、その一方で、「愛国」や「愛国心」という言葉にアレルギー反応を示す人も少なくありません。
 そうした人にとって「愛国」とは戦前・戦中の日本の軍国主義やナショナリズムを連想させる傾向があるようです。
 その場合、「愛国」には、侵略戦争や、国旗や国歌の強制、外国人差別といった「右翼」的なイメージが伴います。いずれにしても、「愛国」には政治的に保守や右派のイメージがつきまとうものでしょう。
 実際、書店の「政治」の棚には、保守系の著者や出版社による「愛国」本がずらりと並んでいるではありませんか。
 ところが、実は、この「愛国」という思想が保守や右派の政治的立場と結びついたのは、歴史的には比較的最近のことに過ぎません。いわゆる愛国思想の歴史はヨーロッパの伝統では、古代ギリシャ・ローマにまで遡ることができますが、一八世紀の末までは、今日の私たちが保守的とか右派と呼んでいる政治的イメージとはあまり関係がなかったのです。
 では、一八世紀末までの愛国思想とはどのようなものだったのでしょうか。
 どのようにして「愛国」が保守や右派の思想であるというイメージが生まれたのでしょうか。
 本書では、これから6章にわたって、こうした問題を歴史的に論じたいと思います。そうすることで「愛国」とは何かという問題について、常識や先入観に頼るだけではわからない側面が多々あることを示そうと考えています。
「愛国」という思想には実に長い歴史があり、その中で培われてきた伝統から見れば、保守や右派と結びつく「愛国」思想こそがむしろ伝統を逸脱した側面があることも見えてくるはずです。

今なぜ「愛国」なのか
 しかし、今なぜ「愛国」を論じるのか、と訝しく思う向きもあるかもしれません。
 それは現在、「愛国」という言葉が世界中で政治を語る言葉として復活を遂げているからです。アメリカ合衆国では、2001年9月11日の同時多発テロ事件を受けて愛国者法(Patriot Act)が成立したことに象徴されるように、愛国的であることの重要性が広く論じられるようになりました。ドナルド・トランプ大統領時代にもそうした傾向は見られましたが、ジョー・バイデン現大統領もコロナ・ウイルスに対するワクチン接種を受けることが「愛国的」だと発言して話題になりました。
 また、プーチン大統領のロシアや習近平国家主席の中国でも愛国心の発揚が色々な形で試みられています。とりわけ香港では国家安全維持法の施行以後、香港の立法会(議会)の議員には「愛国者」が選出されるよう選挙法が改正されました。こうして2021年12月、中国政府が「愛国的でない」と見なされた民主派の人々を選挙から排除したのは記憶に新しいところです。
 さらに、今年2022年2月24日にロシアが開始したウクライナ侵攻に際して(本書製作中の現時点では)、ウクライナの兵士だけでなく民間人も武器を手に取ってロシア軍と戦っています。その姿に欧米のメディアは「愛国心」を見出し、称賛しています。その一方、ロシアのプーチン大統領は、国内に戦争反対の声が高まっていることを受け、「真の愛国者」と「裏切り者」の識別は容易だと述べ、反戦を唱える市民を弾圧しています。
 日本もまたこうしたトレンドと無関係ではありません。2006(平成18)年に改正教育基本法が国会で可決され、その当時、争点となった一つが「国を愛する心」を道徳教育の一環として教えるという新方針でした。教育学者の広田照幸や社会思想家の佐伯啓思、姜尚中のような論者が愛国心をめぐって議論を戦わせました。
 現在では、愛国心の問題がメディアで表立って論じられる機会は少なくなっている印象がありますが、その一方で、2018年度には、全国の小学校で道徳が新しい教科として導入され、翌2019年度からは中学校でも授業科目として教えられています。つまり、ある種の愛国心が日本全国の義務教育の現場で子どもたちに教え込まれているという日常的現実があることを忘れてはならないでしょう。
 子どもたちは公教育で「国を愛する心」を習っているのだから安心だ、と考える方もおられるかもしれません。しかし、先ほど指摘した香港立法会の例を見ても明らかなように、政府による愛国思想の押し付けは、自由と民主主義にとって脅威になる場合もあります。
 しかし、だからと言って「愛国」を十把一絡げに、軍国主義やウルトラ・ナショナリズムと同一視するのも短絡的です。「愛国」という日本語で表現される思想には、それ独自の長い歴史があります。その歴史に触れてみれば、現代の私たちが「愛国」という言葉から連想するイメージや理念、感情は、時代や国の違いを超えて不変だったのではなく、現代人固有の思い込みに過ぎないことも明らかになるでしょう。そのような「思い込み」を私たちが抱くようになった原因を歴史に探ろうというわけです。
「愛国」に関する現代の常識的理解を歴史的に相対化すれば、過去には一般的だったが現代では忘れ去られてしまっている「愛国」についての考え方を、現代の私たちが学び発展させていくという建設的な道筋も見えてくるではないでしょうか。
 こうして現代世界の状況にマッチした「もう一つの愛国」を構想することも可能になるはずです。
 本書では、「愛国」を常識的理解の束縛から解放し、新たな「愛国」を創造するところまでみなさんを案内したいと考えています。

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