習慣としての服従
不服従というテーマについて、歴史に立ち返って考える際、見逃すことのできない書物がいくつかあります。
そんな古典のひとつに、一六世紀フランスの法律家エティエンヌ・ド・ラ・ボエシが執筆した『自発的隷従論』があります。
ド・ラ・ボエシはこの作品の中で、ちょっと意表をつく問題提起をします。それは、たった一人の人間にすぎない国王になぜ大勢の人々が黙って服従しているのか、という問いです。
二人や三人の場合は一人を相手にして勝てなかったために、その一人に従うということはありうるかもしれません。しかし、一〇〇人、いや一〇〇〇人もの人々が、たった一人の人間の命令にじっと我慢して従っているのは、一体どういうわけか。
なるほどそう言われてみれば、たしかに「奇妙」です。その現象について、ド・ラ・ボエシは言います。「それは、彼らがその者をやっつける勇気がないのではなく、やっつけることを望んでいないからだ」。つまり、人々は「自発的」にたった一人の支配者に「隷従」しているのだ、というわけです。『自発的隷従論』という書名はこの主張を端的に要約しています。
人々がたった一人の支配者に黙って服従することが常態化してしまうと、それは人々の習慣となります。習慣として身についたことは、自然なこととして人間は理解するものです。
日本人が箸で食事をする習慣を幼いうちに体得すると、箸を使った食生活は自然なものとなり、取り立てて不思議に思うことはありません。でも、インド人は右手だけを使って食事をしますし、欧米人がナイフとフォークを使うように習慣はそれぞれ異なります。それと同様に圧政者のもとで隷従を長年強いられてきた人々は、それ以外の可能性を考えることをしないで、服従することが習い性となってしまいます。
したがって、支配者が圧政者となり果てて、人々を抑圧しているとしても、服従するのが自然な状態である以上、服従をあえて拒否するには多大な心理的抵抗が生じることになります。
こう考えると、圧政者による政治の不正を正すのに、私たちがまず戦わなければならないのはその圧政者本人ではないことがわかります。むしろ、私たちは、私たち自身の内面に確立されてしまった、服従する「習慣」と戦わなければならない、とド・ラ・ボエシは指摘しています。
その服従する「習慣」とは、思考の惰性でもあるといってよいでしょう。
一八世紀アメリカの思想家トマス・ペインは、その著書『コモン・センス』の開巻冒頭で書いています。
「物事を間違っていると考えようとしない長い間の習慣によって、すべてのものが表面上正しいかのような様子を示すものだ。そして初めはだれもがこの習慣を守ろうとして、恐ろしい叫び声を上げるのだ」
トマス・ペインは、アメリカ独立革命に思想面で大きな影響力を持った人です。アメリカがイギリスの植民地でいることは「習慣」となっているが、それが正しいこととは必ずしも言えない。しかし、それが習慣となってしまっているために、その習慣を打破しようとする試みには「恐ろしい叫び声を上げる」というわけです。
しかし、時間が経たてば人々のものの考え方も変わる、とペインは述べて、イギリスによる「権力の濫用」に抵抗することを読者に呼びかけました。
さて、この「習慣」ですが、言い換えれば「慣れ」ともいえます。
何でも少しずつ変化してゆくうちに、次第に「慣れ」て、しばらくすると大きな変化になっていることに気づくことがあります。
チリも積もれば山となる、です。
同様に、不正なことでも「これくらいいいだろう」と口説かれて、「確かにあまりひどいことではないな」とその不正なことに手を染めたとしましょう。しかし、「これくらいいいだろう」を何度も繰り返すうちに、いつの間にかとんでもない悪事に関わってしまっているということがあります。企業の会計不正はその典型例です。
このように少しずつの変化に慣らされるうちに、いつの間にか、とんでもない不正が横行するようになってしまう。
不正権力に服従するのも、小さな不正を見逃すことを繰り返すうちに、不正に「慣れ」てしまう結果だ、ということができます。