PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

あいだについて

見えるものと見えないものとそのあいだ・3

PR誌「ちくま」7月号より小高知子さんのエッセイを掲載します。

 パラレルワールドを信じている。
 世界はちょっとダブってできている。らしい。
 それが本当なのか、どういう構造でそうなっているのかなんてことはもちろん知らない。けれど世界は平行で、おまけにちょっとダブっている。

 演劇が好きだった。台詞を言うのがなによりも好きだった。しつらえられた場所で、仕組まれた出来事で、決められた動きで、わたしでしかいられないわたしで、与えられた言葉を言う。なににも代えがたい、大きな喜びだった。
 すでに書かれてしまっていること、つまり完結した物語をくり返すという行為は、考えれば考えるほど不思議だ。わたしは次に相手がなんと言うか知っている。相手の言葉を受けてその次にわたしがなんと言うかも知っている。その次も、その次の次も、その次の次の次も次の次の次の次の次も。
 ちがうことを言ったっていいのだ。言うのをやめたっていい。与えられた台詞なんて、無数にある可能性のうちのひとつにすぎない。書いたとおりに喋って! と劇作家が席を蹴っても、両隣の気の毒なお客さんが眉をひそめるだけのこと。
 選択するのはいつもわたしだ。役のわたしと、役でないわたしをダブらせて、ほかのあらゆる可能性を葬って、たったひとつをもぎとって、今、ここに放つ。結果、愛しあうふたりは死に、いとしくなつかしく美しい庭は失われ、劇作家は着席のまま拍手をする。
 とんでもないことをしているなと思う。あまりに野蛮で、ぞくぞくする、すなわち大きな喜びごとをしている、と。
 今日もまた物語をくり返してしまったこと、ふたたびこの終焉へいき着いてしまったこと、わたしが捻りつぶした、あったかもしれない結末に気づいているのかいないのか、つるつるの顔で拍手をくれるお客さんを舞台の上から見下ろして、だけどここまで一緒に来られたことへの感謝と、つるつるのまま劇場を出てとんでもない場所へかえっていくことへの尊敬をこめて頭をさげる。それから、大いなる喜びのひきかえになった死屍累々を悼み、別れを告げるために。

 ところでわたしはおなじはなしを何度も聞く、というのが苦にならない。むしろ話してほしいと思う。何度でも、おなじはなしをしてほしい。
 さっきの笑いばなしも、昨日の自慢も、二十年前にうちあけられた秘密も、今、ここで、聞きたい。細かいところが多少ちがっても構わない。あなたのくちから、できれば明日も、今の言葉で、聞きたいと思う。
「今言って。あとでもっかい言うことになったとしても、今も言って、ちゃんと、ちゃんと言って」
 誰かのさびしいくちびるにそうやってつめ寄るたび、分岐して泡のように増殖する世界を思う。けっしていくことのない、交わることはぜったいにない、無限の世界の重なりを。

PR誌「ちくま」7月号