『武器としての世論調査』リターンズ

第3回 投票率の底から
『武器としての世論調査』リターンズ―2022年参院選編―

普段ニュースで目にする「世論調査」の使い方を教えるちくま新書『武器としての世論調査』は、2019年6月、第25回参院選を目前に刊行されました。 刊行以降の世論の変化をみていく特集の最終回は、1990年代に崩壊した投票率から、これからの課題を検討します。

6.投票率の低下がなぜ問題なのか

 もしも今の政治で人々の暮らしがまもられていて、老後の生活の見通しも立つし、周りに困っている人もいないのであるならば、それぞれの人は自分のやりたいことに打ち込んでいればよいのでしょう。そうした状況のもとでは有権者のなかに変化を求める気持ちがおこりにくいため、投票率が低下していっても、それは自然な現象として受け入れられるかもしれません。
 けれども今の日本は果たしてそのような状況にあるでしょうか。
 すでに日本は、次第に豊かになっていくというかつて持っていた条件を失ってしまいました。30年かけて生活が豊かになるどころか実質賃金はむしろ下がりました。他方で消費税が上げられて、ポケットのなかの千円札は「九百円札」になりました。価格を据え置いて内容量を減らす「実質値上げ」もあちこちでなされました。
 戦後の昭和期の45年間、日本はめざましい発展を続けました。しかしバブル崩壊からの30年で起きたのは衰退です。かつてあれほど発展した国が、一人当たりの名目GDPが世界2位だった国が、ここまで凋落したのです。こんなことがあと15年でも続いたら、日本は戦後45年発展してその後45年衰退した歴史的な失敗国家として世界中の教科書に載ることになってしまうでしょう。
 私たちは自らの生活を守るためにも、この衰退を止めなければなりません。そのためには最低限、様々な人がこの問題を認識し、力を合わせて政治に関わることが必要になるはずです。それが実現されていないという点において、今の日本の投票率の低下は大きな問題と言わざるを得ません。

7.政治参加と教育

 しかし力を合わせて政治に関わるといっても、今の若者は子供の頃からそれと程遠い環境におかれています。今の学校教育のなかで、政治参加や民主主義について学ぶ機会はどれほどあるでしょうか。もちろん、公民や政治経済の授業で扱うことはあるのでしょう。けれどもここで大切なのは、当事者として学びとることです。つまり、一人一人の子供が自ら考えて政治に参加したり、自分と友達を取り巻く状況を変えていくような体験ができているか、そうした余裕や機会を持てているかということを考えていく必要があります。
 ところでこのように書くと、子供が政治に参加してよいのかという疑問をいだく方もいるかもしれません。けれども政治に関わり、今の社会について決断していくのは、選挙権を持つ人に限られるわけではありません。日本国憲法における主権者は、有権者ではなく国民です。
 また、政治参加は選挙やデモや署名活動ばかりではありません。家族や友達と語り合い、ともに何かを目指して力を尽くすことや、文章を発表することも政治参加の一環となりえます。ジョン・レノンはイマジンを歌い、パブロ・ピカソはゲルニカを描きました。歌を歌ったり絵を描いたりすることもまた、広い意味での政治参加であるわけです。
 けれども今の子供たちはそうしたことが満足にできないでいるばかりか、むしろ政治に関わることは自分のためにならない余計なことだとみなされているのではないでしょうか。たとえば自分の子供が何かを変えようとして政治に関わることを望んだとき、どれほどの親が積極的に応援してあげられるのでしょうか。そのことで先生から睨まれるかもしれません。進学で不利益を被るかもしれません。学力が落ちるかもしれません。少なからぬ親はやめてほしいと考えるのではないでしょうか。
 若者の投票率の低さには、こうした親の考え方もまた無縁ではないわけです。そして親をとりまく社会の風潮や、教育のあり方の反映でもあるのです。政治から遠ざけられた環境で子供時代を過ごしてきたのにもかかわらず、18歳になって選挙権を得たから投票に行きなさいというのはずいぶんとおかしな話ではないでしょうか。たとえ選挙権を得る時に投票の仕組みや投票の仕方を教わったところで、それは政治参加を学ぶことにはなりません。そのような態度で政治に参加するというのでは、投票日にだけ「主権者」となり、あとは黙って結果に従うというような民主主義ならざる民主主義しか実現しないでしょう。

8.いま、ここにある「敗北」から始める

 社会を変えるというのは、一人一人がばらばらに行うことではなく、言葉を交わし、力を合わせて実現する事であるはずです。それにもかかわらず、多くの人が互いに協力できなくなっているという現状があります。
 それには教育や人間関係などが関わっていますが、根底に位置しているのはやはり社会のあり方です。この社会は、多くの人の協力によって動かされるようにはなっておらず、むしろ人と人の競争によって動かされることになっています。その競争というのは必ずしも切磋琢磨するようなものではなく、蹴落としあいや奪い合いを含むものであり、子供は幼い時分からそれにさらされて生きるのです。
 こうしたこと自体が、いま、ここにある敗北の結果です。人と人の関係がこれほどばらばらになってしまっており、協力して社会を変えていくことが困難な状態に置かれているという、敗北の結果のあらわれが投票率の低迷です。多くの人がばらばらにされ、社会に生起する問題に対して無力な現状があります。投票率を上げていくということは、そうした現状と対峙することです。
 日本が貧しく、暮らしにくくなり、国際的な地位を落としていったのは、1990年代初頭から30年も衰退を続けてきた結果にほかなりません。その衰退はバブルの崩壊に端を発しますが、バブル崩壊があったから仕方ないのだとはいえません。むしろ重要なのはその後30年も立ち直れなかったことなのです。
 バブルの崩壊と投票率の崩壊、その後の日本経済の低迷と投票率の長期低落傾向が重なって見えてきます。いずれもこの社会から取り残された人たち、仕事でも政治でも力を発揮できなかった多くの人たちが関わっているからです。
 今のままの政治が続けば、日本はこれまでと同じように衰退を続けるでしょう。それを転換することができるとしたら、誰がそれをなしうるのでしょうか。それはこの衰退の中で政治に失望していった人たちにほかならないのではないでしょうか。それはすでに日本の中で大きな階層をなしています。その政治的動向がこの国の未来を左右しうるはずなのです。
 その人たちが「社会は動かない、自分もまた変わることがない」という諦めのなかから立ち上がり、自分たちの失われた未来を取り戻そうとして政治へと踏み出す時。そして政治の側が、その人たちの未来を作り出すことなくして失われた日本の未来を取り戻すことはできないという点で結びついた時、物事は大きく変わっていくのではないでしょうか。 
 そのとき政治は投票率の底から動き始め、日本の社会は再び力を取り戻すための転換点を迎えるのではないかと、思えてならないのです。

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