ちくま学芸文庫

一九九四年の隈研吾を追体験する
ちくま学芸文庫版『新・建築入門――思想と歴史』刊行に寄せて

日本を代表する建築家のひとりである隈研吾さんが、若き日に書き下ろされた『新・建築入門』。その大胆かつ透徹した文章で多くの若手に影響を与えてきた本書が、新たな自著解説を加え、ちくま学芸文庫より刊行されました。やはり本書に影響をうけた建築家の藤村龍至さんから、文庫版刊行に寄せて頂いた文章を公開いたします。(PR誌ちくまより転載)

 本書は一九九四年一一月に発売された隈研吾の単著の文庫版である。隈氏は一九九四年の終わりから一九九五年の頭にかけて3冊の著書を上梓している。ひとつは一九七七―八四年に『SD』誌上に発表した論評をまとめた『建築の危機を超えて』、もうひとつは個別に発表した論説をまとめた『建築的欲望の終焉』で、『新・建築入門』は唯一の書き下ろしであった。
 個人的な話で恐縮であるが、私は一九九六年の四月に大学に入学し、最初の夏休みに北海道を自転車で周る合宿のお供にと持参したのがこの書であった。旅先で読むのによいかなと思ったが、実際のところ、入門と言いながら当時の自分にはハイコンテクストな解説であった。
 四半世紀ぶりに再読し、いくつかの発見があった。ひとつは、隈氏が冒頭でデリダの「脱構築」概念の相対化に頁を多く割いていることである。ちょうどその頃、建築界ではデコン(=脱構築)というスタイルが流行していた。水平垂直を崩し、地震で崩れたかのようなデザインを「脱構築」という概念で説明する者もいた。隈氏は本書で、そのような建築界の「脱構築」の受容、あるいは共振について違和感を表明している。
 隈氏の違和感を後追いするように、本書が刊行された直後の一九九五年一月一七日、神戸を大震災が襲った。高速道路が横倒しになり、駅は陥没し、商店街が焼失するような凄まじい震災のリアリティのまえで、歴史の引用も、現代思想の潮流も、それらに共振した建築のデザインも無力であった。そしてこの年の三月、地下鉄サリン事件が起こった。一九八〇年代の後半は建築家の華やかな活躍が続いたが、その内実は虚構によって彩られた都市を、建築家がその虚構性を批判するポーズを取りながらまた新たな虚構を重ねるというものであった。隈の初期の代表作「M2」(一九九一)もまたそのような建築家のポーズとして提示されていたが、都市が物理的に崩壊し、オウム真理教がサリン事件を引き起こしたあとでは、そのようなポーズも完全に無力となった。
 そんな一九九五年を経て、建築は大きな転換を迫られていた。隈は『新・建築入門』の執筆を経て、地方を行脚するようになった。木のルーバーで壁や屋根、内装や外装という分節や序列を超えて建築の全体を覆う「那珂川町馬頭広重美術館」(二〇〇〇)は建築界に衝撃を与え、ちょうど大学院生となり、多少は建築家の言説を理解するようになった私は、隈の確信に満ちた言説がとても魅力的に映った。今思えば、この頃の隈氏の動きは隈流の「脱構築」の模索だったのかもしれない。
 隈が快進撃を始めることになる一九九五年以後のこの二五年は、経済のグローバリゼーションが進んで資本が流動化する一方、それに対抗するために地域主義が復活するという矛盾に満ちた時代であった。二〇〇〇年代初頭の表参道では、有名ファッションブランドが建築家に依頼して建築を実現する例が続いたが、建築家はよりリテラルに表層、立面そのものの意匠の提案を求められた。隈研吾はそうした矛盾に対して、表層に自律した建築ボキャブラリやパタン、理念を確立しつつ、建築やまち、社会などの深層に関わったり関わらなかったりすることで、世界とより「広く」関わることができた。そしてその方法論は新国立競技場にまで到達するのである。
 文庫版あとがきで、この「一九九四年」という年は隈氏のプライベートにとっても大きな節目であったことが明かされている。「父親が入院したせいで一切出張も旅行もできず、ずっと机の前で、頭を使っていた」のだという。「コロナのせいで一切出張も旅行もできず、ずっとモニターの前で頭を使ってきた」私たちはいま、「一九九四年の隈研吾」を追体験しているのかもしれない。『新・建築入門』を再読した私たちは、どんなマップを手に次の時代へ泳ぎだすのだろうか。

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