ちくま文庫

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李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』書評

台湾人初の芥川賞作家・李琴峰さんの芸術選奨新人賞を受賞した代表作『ポラリスが降り注ぐ夜』が文庫化されました。小説家/ライターの坂上秋成さんに、連作小説という器を最大限活用し、セクシュアル・マイノリティの複数形としてのあり方、単数形としてのあり方を繊細に力強く描いた本作の魅力を読み解いていただきました。(PR誌「ちくま」7月号より転載)

『ポラリスが降り注ぐ夜』には、一貫して「名指し」をめぐる問題がつきまとっている。とり憑かれていると言ってもいいかもしれない。名乗ること、名付けること、名指すこと。
 おさめられた七つの物語には七人の主人公がいて、それぞれが性的マイノリティとして生きている。レズビアンもいればAセクシュアルもいるし、ノンセクシュアルもいればトランスジェンダーの女性もいる。これらは明確な呼称、明確な「名指し」だ。
 だが、セクシュアリティにまつわる事柄は、決して彼女たちの全てを表しているわけではない。生活を支えるための仕事、自身の尊厳をかけての政治運動、家族との関わり、そういったものを誰もが暮らしの中に組みこんでいる。
 ここには本作の構造的な魅力がある。セクシュアル・マイノリティを題材とした小説に向き合う時、読み手は性にまつわる登場人物の思考や人間関係に目がいってしまうだろう。しかし本作においては、人々が社会の中に存在し、政治とかかわりながら生きていることが明確に強調されている。性愛の話と並行して、不意に「天安門事件」という五文字が並んだ時、突然の緊張を感じる読者は少なくないはずだ。
 そうした登場人物たちにとっての結節点として、新宿二丁目のビアンバーであるポラリスが存在する。彼女たちはみなこの店を訪れ、店主や客や恋人と酒を飲みながら会話を楽しむ。
 新宿二丁目、あるいは夜の人々が集うバーという空間は奇妙な場所だ。ある人間がどのような思想を持ちどのような態度で人生に立ち向かっているかというような小難しい話は一度リセットされ、誰もがフラットな存在になれる。
 同時に、夜の街はきわめて流動的な世界でもある。本作において二丁目は「夜になると姿を現す巨大な蟻の巣」として表現されている。昼間は地下にもぐっている人々が、暗くなった途端に地上へ這い出してくるわけだ。しかし街に棲むのが蟻ならば、寿命は決して長くないだろう。夜の街では次々に人が入れ替わっていく。十年選手だった常連客が突如姿を消すことだって何もめずらしくない。そして空いた席には新しい人物が腰を下ろす。
 このような夜の街の在り方は、セクシュアル・マイノリティにおける「名指し」に近しいものとなる。どちらも個人を複数性の中に取りこみ、「あなたはひとりじゃない」と安心させながら、個が個になれないという恐怖をも提示してくるのだ。
 レズビアンという「名指し」は、カテゴライズによる安心感と同時に、テンプレート化したイメージをも付与してくる。ビアンという言葉の範囲に個人をおさめようとする欲望がそこには働く。
「名指し」について、本作の中で利穂は「言葉がないのはあまりにも心細い」と語った。香凜は「どの言葉を使っても、自分自身を部分的に削り取ってしまうような気がする」と言った。
 どちらが正解かを考えることに意味はない。重要なのは、「名指し」の効果が二者択一ではなく、むしろ場面によって都合よく利用するようなやわらかさを持つべきだという話である。言い換えればそれは、私たちが「名指し」による複数性と単数性を往復する運動の中に、自己を見出せるということだ。
 本書は安易なLGBT支援をしているわけでもないし、ありふれた多様性の称揚をしたりもしない。そうではなく、この小説は読者に対して問いを投げかけているのだ。「マイノリティを応援しよう!」というような安っぽいニュアンスに惑わされず、表層的な言葉の奥で熱を帯び、呼吸をし、懸命に現実を生きる人間の存在を感じ取っているのかと、訊いてくるのである。
 人によっては、耳慣れないフレーズが多用されているかもしれない。だが、ここに書かれているマイノリティの話は、あらゆる人間の現実と繋がっているものだ。教室の中に、会社の中に、友人の中に、存在する人たちの話だ。精緻な筆致は切実さにも通じる。本作の運んでくる痛みは、誰しもを「当事者」とするものであるに違いない。

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