■体毛に表される男性性を脱ぐ
坂上 以前から作品やツイッターなどを拝見していて、大前さんとは一度お話ししてみたいと思っていたので、今日は楽しみにしていました。
大前 こちらこそお声がけいただきありがとうございます。
『ファルセットの時間』を読んで、まず面白かったのが、男性の身体を持っているひとが加齢による自身の変化を意識することで、時間へ執着するところが書かれていたことでした。
また、今回、対談するにあたって、坂上さんのデビュー作『惜日のアリス』から『夜を聴く者』「私のたしかな娘」「溺れる心臓」と読ませていただきましたが、いずれもそれをテーマに据えて物語として苛烈に描くこともできるけれど、あくまで時間の流れのなかで登場人物がふだんの生活を送っていて、その生活の一部としてセクシュアリティやクィアな欲望が書かれていることがいいなと思いました。
坂上 ぼくはひそかに『ファルセットの時間』は大前さんの『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』と似ているように感じている部分があると思っていました。単にジェンダーやセクシュアリティの問題を主題にしているからというだけでなく、それらを特別視せず、日常の中へ自然に溶かし込む姿勢が共通しているように感じられたんです。
大前 そうですね。坂上さんは、なにかに名前をつける/つけられることを通して、パキッと直接的に表現してしまうことへの抵抗が一貫してありますよね。
坂上 そこはいちばん意識していることなので嬉しいです。ぼくのデビュー作である『惜日のアリス』はレズビアンのカップルについて書いた小説ですが、作中でその単語はほとんど使いませんでした。その後の作品でも、直接的にセクシュアリティをカテゴライズするような言葉はなるべく避けてきたつもりです。
最近はみんな当たり前のようにLGBTという言葉を使いますが、僕は人間のセクシュアリティを限定してしまう側面があると思っていて、あまり好きではないんです。
もちろんマイノリティの存在を社会的に可視化して、現実にある差別や偏見に抵抗していくために言葉を用意することは必要です。だけど、たとえばぼくは自分をノンケだと認識していますが、隅から隅まで余すところなくシスヘテロかと言われたら、違和感を覚えてしまう。男性芸能人に性的な感情を抱くこともありますが、それでバイセクシュアルと言われても違う気がする。つまりは、LGBTという言葉から自分が抜け落ちているように感じてしまうんです。
社会運動としてのLGBTの意義は当然あるんですけど、そこからはみ出たものについて語ることも、文学にとって重要な仕事だとぼくは考えています。もちろん、近年の小説でも李琴峰さんの『ポラリスが降り注ぐ夜』や千葉雅也さんの『デッドライン』のように、ゲイやレズビアンというカテゴリーについて深く掘り下げて思考している作品はあるし、重要なテーマだとも思います。
ただぼく自身は、アイデンティティやセクシュアリティをつねに揺らいでいるものとして捉えたいんです。だから、誤解を招く言い方かもしれませんが、できるだけ"軽々しく"性的なものを書きたいんです。いまはセクシュアリティやジェンダーについて語る負荷が高すぎて、全方位に気を配りながら完全武装で臨まないといけない空気になっているように感じることがあります。そこには社会が要請する必然性もあると思うんですが、その外側から生まれてくる語り口や視点が排除されているようにも映る。
大前 性自認についてなんらかの既存のカテゴリを名乗ると、そのひとはそのひとでしかないのに、同時に政治的な表明をしていることになる世の中になっていると思っていて、ある立場を引き受けるのはとても大変だし大事なことですが、名前を付けることで、ときに自分や他人を必要以上に規定したり外から規定されたりして、変わりたくなったときに縛られてしまう気もします。それこそ時間によってひとは変わっていくということを認めにくくなるのではないかな、と。
坂上さんの小説では、後半に語り手が自身の価値観を省みるシーンが多く出てきます。それはだいたいそこまでで語り手が持っていた執着を解いていくシーンなんですね。『ファルセットの時間』であれば、竹村がユヅキに対する支配欲を自覚して解いていく。そのへんで体毛の話などもあって、時間によって影響を受ける自分の身体と心のあり方みたいなものが不可分に書かれているあたりに、ある人物がなんらかの属性ではなく全体として書かれていることが感じられて、これを読んで安心するひとは多いのではないかと思いました。
坂上 この小説は一部ぼくの私小説的なものでもあって、たとえば中学生の時に脱毛器を買い漁っていたというエピソードなんかは完全に実話です。とにかく腕の毛を見られるのが嫌で、半袖の服を着て外出できるようになったのも五、六年前からだと思います。一方で、腕の毛を完全に脱毛することにもいつの間にか抵抗感を覚えるようになって、そうした感覚の齟齬がつらかった時期もあります。ただ、三〇歳を過ぎたあたりから、腹に肉がついてきたとかの新しい不満も含めて、それまではしんどく思っていた要素が自分の身体に馴染んできたように思っています。
二〇代前半のころは、他人にかわいいと思われたかったし、その頃は二丁目のミックスバーやレズビアンバーによく行っていて、そこで女の子に間違われるのが嬉しかったんです。今はそんな風に思ってもらえないだろうけど、そもそも誰かにかわいいと思われたいということにあまり執着しなくなったように感じます。男とか女とか以前に、老いて変化していく自分の身体と上手く折り合いを付けられるようになったのかなと。
大前 ぼくはいま二七歳なんですけど、ここ数カ月で急に体毛が濃くなってきたんです。剃ったりもするんですけど、自分の場合、体毛がないほうが鏡を見ることができるというか、体を直視できるんです。これは女性になりたいというわけでもなく、濃い体毛に表されるような男性性を脱ぎたい、もう少し言うとアイデンティティを脱ぐ方向で行きたいということなのかな、と自分の小説も含めて思います。
坂上 一方で、自分が男であることにホッとする瞬間もあるというのが難しい部分だなと感じます。ぼくは年々、男友達と一緒にいる時に生まれてくるホモソーシャルな空気が苦手になっているんですが、それと並行して同性だけで気兼ねなく話したいと感じる瞬間もある。そうした、自分の中の保守的な部分と、逸脱を望む欲望とのダブルスタンダードで自己嫌悪に陥ったりもします。当たり前のことですが、男性と女性は基本的に平等であってほしいし、自分もそこへフェアに関わりたいと思っている。けれど、そもそも「フェアに関わる」という物言い自体もマッチョな傲慢さを含んでいるようにも感じてしまうんです。そういう時に、自分はどうしたらいいんだろうと悩むんですが、それを一言で言い表せないからこそ、ぼくは小説を書いて本当に細かなニュアンスを表現したいと考えているのかもしれません。
揺れ動く心と身体をとらえる言葉
元女装者の中年と十代の女装少年の交流、ぬいぐるみと話すサークルに集う大学生、ノーマルな社会になじめないひとびとのクィアな欲望、ジェンダー規範へのとまどいをセンシティブに描く気鋭の小説家ふたりによる初対談! 男性性へのとまどいや欲望とのつきあい方、LGBTを描いた小説について等々率直にお話しいただきました。ご覧下さい。